概要
大 崎 昭 一(お お さ き し ょ う い ち)
通称「泣きの昭ちゃん*1」。同期にはテンポイントの主戦鹿 戸 明などがいる。
また、息子は調教師を務めている。
優秀な騎手であり、ダービー2回勝利*2やTTGの一頭グリーングラスのラストランとなった有馬記念を1着で飾ったこともあり、
970勝して勝率も優秀騎手の基準の一つとされる勝率1割(勝率は.109)を超えるほど。
しかし、彼のことで一番言われるのは以下のことかもしれない…。
新潟事件
1985年8月25日、柵ごしにファンと言葉を交わした行為が公正競馬を害するとされた。
これが予想行為に該当していたため、裁定委員会は大崎が面識のある人物と私語を交わしていたことを発表し、無期限の騎乗停止処分を下す。
事件発生直後からマスメディアはこぞって八百長を指摘するようになり、暴力団関係者と関係があるかのような記事を書いたほど。
結果的には冤罪となり、4ヶ月後に騎乗停止処分は解除されたものの、事件後しばらくは本拠地・関東の調教師から騎乗依頼が殆どなくなるほど。
この事件は「新潟事件」と呼ばれ、その後も公衆電話で長電話をしたり競馬関係者と一緒にいるだけで注意を受けるなど、JRAから厳しい対応を受け続けた。
これによって多くの有力馬の騎乗機会を失ってしまったことは、大崎が1000勝に届かなかった原因の一つとされている。*3
また、息子が奥さんの姓で調教師をしている理由にもなっている。
最後の輝き
八百長疑惑もあってか騎手としての存在感が薄くなってしまった大崎だが、橋 口師*4及びレッツゴーターキンとの出会いによってもう一度表舞台に上り詰めることになる。
この時点のレッツゴーターキンは重賞勝ち馬ではあったが、ハンデで勝っただけとされていた。
事実、重賞2連勝*5後は重りが増えたが、これ以降全く勝てなくなっていた。
しかし、彼はこの馬の強みや癖を熟知し、ついには1番人気のテイオーらウマ娘の元ネタ馬5頭を撃破して天皇賞(秋)を勝つまでに至るようになった。
これによって大崎は騎乗数が復活したが、結果的に一番これで得をしたのは後にダンスインザダーク・ハーツクライ等有力馬*6が集まるようになった橋 口師である。
主な主戦騎乗バ
ウマ娘
- ツインターボ(1991年ラジオたんぱ賞、有馬記念14着*7)
非ウマ娘
- ダイシンボルガード(1969年日本ダービー)
- フジノパーシア(1975年天皇賞 (秋),1976年宝塚記念)
- レッツゴーターキン(1992年天皇賞(秋))
実績自体はあるが、テン乗りが多いので書きづらいところ…。
春二冠のカツトップエースも有馬のグリーングラスもテン乗りなので。