上はヨーイチの騎手時代、下はウイポ9 2022のヨーイチ(デフォだと馬場裕央の名になっている)。
ウイポのヨーイチは若き天才のイメージだからかイケメンに描かれている。
概要
日本の騎手で天才の形容詞を最初に付けられた男、福 永 洋 一。*1
その実力は同期の大僧正とマサト以上*2とも評され、怪我さえなければ80年以降の彼らの勝ち星は減ってた可能性は否めないほどで、
事実ヨーイチがいたときは彼らは陰に隠れていた部分もあった。
天才ぶりが発揮されるのは3年目からで昭和45年から53年までの計9回で最多勝利騎手、*3*4
現役時代わずか11年ほどで983勝を挙げていたほど。*5
第一線での活躍期間は短かったものの、現役時代の活躍が脅威的であったことから通常1000勝以上の騎手が対象の騎手顕彰者に唯一1000勝未満で選ばれているほど
ただし、意外にもダービーは獲れておらず、2018年にようやく息子のユーイチがダービージョッキーになりその無念を晴らしてくれた。*6
天才騎手の天才たる所以
常人には考えつかないような騎乗で勝利を重ねたとよく言われる騎乗。
とはいえ、当初の騎乗はそこまで評価されておらず、他馬に危険が及ぶような騎乗であり、他の騎手からの評判はよろしくなかった。
そして、実際に騎乗を審議されたこともあったりする。*7
ただ、ヨーイチもこのままではマズいと考えたのか、次兄・二三雄*8や佐々木竹見*9の騎乗を研究して以降、臨機応変の騎乗を身に着け始めた。
こうした努力もあってか70年には初重賞勝利と全国リーディングジョッキーになる栄誉を成し遂げる。
翌年の71年は勝ち数こそ多かったものの重賞勝ちがなく、一部の者からは「数をこなしただけ」と揶揄されることもあった。
しかし、そんなヨーイチの評価を世間が変えることになったのは差し馬のニホンピロムーテー*10を中間地点で先頭に立たせ押し切った菊花賞*11である。
他には、最後の直線で内埒沿いの狭いスペースを突破しマサトらに「ラチの上を走ってきたのかと思った」と言わしめた77年の皐月賞(勝利馬ハードバージ)がある。
流石に77年はヨーイチでもマルゼンスキーがいたら、勝てなかったのでは?…という野暮な話はナシで。
これらの実績を積み重ねた結果、1968年から78年のわずか11年で959勝を挙げる。
この時点でトップクラスの先輩のタケクニとか闘将とか嶋田功*12よりも勝利数は多かった。
これは、天才と呼ばれるのも無理もない成績である。
自然で美しいフォーム、類まれな判断力、競馬に関する膨大な知識*13等、ヨーイチの才能は多くの関係者が語り継いでいるが、
総じて言われるのは「そのような言葉では説明できない何か特異な力を持っていた」ということである。
例えでいえば、お兄さまが「ヨーイチ>でした。」と評したり、
タヴァラが牝馬のKAWACHIやでした。は言葉で説明できるが、彼だけは説明できないと評したりするほど。
当時の競馬ファンの間でもヨーイチの信頼は別格で、如何に平凡な馬であろうと高確率で2着、3着に入線するため、
即消すような馬券でも騎手がヨーイチならとりあえず買いとされるほどの影響力があったほど。
なお、そんなヨーイチを以てしても手を焼いたのが気まぐれジョージことエリモジョージである。
天才騎手、突然の落日
1979年3月4日、毎日杯での騎乗中に前を走っていた馬の落馬に巻き込まれてヨーイチも落馬。*14
一時は生死が危ぶまれるほどの重傷を負い、スタッフの懸命の救命活動*15によって奇跡的に一命を取り留めたが、深刻な脳挫傷で重度の後遺症が残り、決死のリハビリのおかげで1984年には馬に乗れるまでに回復を果たしたものの、
騎手ライセンス更新には間に合わずこの事故を最後に1981年に騎手を引退。余りにも突然にターフを去ることになってしまった。*16
それゆえか、落馬事故当時2歳だったユーイチは若い頃は父の雄姿を知らなかったりする。逆にでした。は自分の父も一流ジョッキーなのにこちらに憧れていた。*17
天才騎手と高知との縁
洋一は高知県高知市出身で、幼い頃に母親が失踪し姉のところで世話になったが、その姉が高知競馬所属の騎手と結婚した事や3人の兄が全員騎手になった事*18から中学時点で騎手になると語っていた。
息子のユーイチも父が落馬事故でリハビリ中は叔母であるヨーイチの姉の所で川遊びをするなど、高知との深い縁があり、
2009年に高知競馬場にて行われたトークショーで「父の名を冠したレースが高知で出来れば」とコメント、それを高知競馬が快諾し翌2010年から「福永洋一記念」として重賞競走が開設された。
第1回はユーイチ自身が広報費やトロフィーを用意し、JRA関係者からもふじさわ師などから副賞の記念品が提供されるなど中央と地方の垣根を越えて開催にこぎつけ、
ヨーイチが好んで聴いていた「南国土佐を後にして」が場内に流れる中、ヨーイチと同じ中学校の後輩である赤 岡 修 次が勝利。
表彰式ではヨーイチが落馬事故以来31年ぶりに公の場に姿を表しファンの声援に手を上げて応え、ユーイチもその光景に涙を流しながら父と関係者への感謝の言葉を残した。
翌年以降も重賞競走として継続して開催され、第3回ではヨーイチの馬事公苑同期の大僧正やマサト、伊 藤 正 徳 師などが集まってのトークショーを開催したり、でした。によるカツオのたたき調理実演などのイベントが開催されるなど、高知競馬の一大イベントとして定着。
初回は1着賞金50万円だったのが第13回では1200万円に増額*19され、高知競馬所属騎手からも「一番獲りたいレース」と語られるほどになった。
主な騎乗バ(ウマ娘)
昔の時代だからか、関わったウマ娘がいなかった…。
主な主戦騎乗馬(非ウマ娘)
- ニホンピロムーテー
- ハードバージ
- エリモジョージ
- トウショウボーイ
- オヤマテスコ