
第二次世界大戦におけるフランスといえば国境要塞マジノ線に代表される防御的な戦略が思い浮かぶが、第一次世界大戦直後のフランス軍では、自動車化歩兵と戦車による機動部隊によって敵陣を突破するという、後のドイツ機甲部隊の有り方に近い攻撃的な戦略も提唱されていた。その主導者であるエスティエンヌ将軍の構想に基づき、1921年から「戦闘戦車」と呼ばれる戦車の開発試作が各社で進められた。
この戦車は敵陣地を破壊するための榴弾砲と敵歩兵制圧のための機銃(旋回銃塔に搭載)を装備し、敵陣突破の主力となるはずのものであった。
ところが、1920年代後半になると、フランス軍の戦略は次第に防衛的になり、また全ての戦車は歩兵部隊に所属して歩兵を支援するものと位置づけられたため、ついにエスティエンヌの機甲部隊は実現することがなかった。戦闘戦車の開発も進みが遅れ、初期の試作車両開発開始から13年たった1934年にようやくシャールB1として制式採用された。なお「シャール」とはフランス語で「戦車」という意味であり、最近では開発社の名前からルノーB1と呼ばれることもある。
シャールB1は車体前面に75mm砲と機銃、旋回砲塔に短砲身の47mm SA34と機銃を搭載しており、最大装甲厚は40mmであった。元の構想になかった47mm砲は対戦車戦闘を意識してのものであり、改良型のシャールB1 bisではより貫通力に優れる長砲身型(47mm SA35)に変更された。また、装甲厚も最大60mmまで強化されている。
最高速度は27.6km/hとやや鈍足だが、当時のフランス戦車としてはそれほど遅いわけでもない。加えて優秀なトランスミッションによってハンドル操行を実現しており、車体前面に固定された75mm砲の旋回は想像よりもスムーズに行うことができた(75mm砲は車体旋回により横方向への旋回を行うため、ゲーム中とは異なり操縦手が75mm砲の砲手を兼任した)。
シャールB1は車体が大型であるのに比べて砲塔が小さいが、これは当時のフランス戦車の特徴である1名用砲塔であるためである。ドイツ戦車は砲塔内に車長・砲手・装填手の3名が乗ることを前提にしていたが、フランス軍の戦車ではこれらの役割を車長がただ一人でこなさなければならなかった。このため戦闘中の車長は常にオーバーワークであり、ドイツ軍のように各車が無線を介して連携しながら戦術機動を行なうなどということは不可能事であった。(そもそも無線機の生産数が不足しており、小隊長車以外には無線機が積まれていないことも多かった。)
シャールB1は武装面ではIII号戦車とIV号戦車を一体化したような強力な存在であり、装甲防御力にも不足はなかった。確かにその性能を発揮してドイツ軍を苦しめることもあったが、全体的にはドイツ戦車に対して優位に立つことはできなかった。その理由は前述のように戦車の設計思想そのものに起因する戦術面の不備と、先見性に欠けていたフランス軍上層部が大して多くない戦車を各歩兵部隊に分散配置してしまっていたという用兵面のまずさにあった。
シャールB1の活躍で特に有名なのは、英雄勲章にもなっているピエール・ビヨット大尉によるドイツ軍への攻撃だろう。1940年5月16日、ストンヌでの戦闘において、彼のB1bisはドイツ軍が占領した村に対して攻撃を仕掛け、III号戦車やIV号戦車を多数撃破し、自身は多数の敵弾を受けるも帰還することに成功した。
フランス降伏後、生き残ったシャールB1はドイツ軍に接収され、Pz.Kpfw. B2 740 (f)の名称が与えられた。
参考資料
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%BCB1
http://combat1.sakura.ne.jp/B1.htm
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