物語_カ

Last-modified: 2024-02-23 (金) 18:30:49

カーヴェ

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キャラクター詳細
人材輩出の国スメールで「デザイナー」と言えば、浮かび上がってくる名はいくらでもある。しかし「建築デザイナー」と言えば、多くの人は無意識にこの名前を思い浮かべることだろうーーカーヴェ。
教令院妙論派出身の彼は、直近の数十年で最も優秀な建築デザイナーとされ、妙論派の星と称される名誉をも得ていたほどだった。しかし残念なことに、カーヴェ本人はこの称号に心動かされはしない。
名声と肩書は彼が認められていることの証だが、同時に彼を束縛するものでもあるのだ。例えば今、カーヴェは自身の破産を恥じている。無名の者であれば破産を公言できるが、有名な建築デザイナーがそのようなことはできない。過剰な誠実さは、信頼の危機をもたらすのだから。そのような事情があって、面子の問題からカーヴェはこの話題を避け、必死に楽しく気楽に生きているフリを続けている。
幸い、彼の高いデザイン能力と深い美学への造詣といった才能を買っている人々は、この偽りのことも信じている。
ーー大建築家であるカーヴェが、多くの悩みなど抱えているはずがないだろう?


キャラクターストーリー1
アルカサルザライパレスや教令院を歩く者は、今でもあらゆる場所で妙論派の学生たちが繰り広げる、卒業した「カーヴェ先輩」に対する想像や議論を耳にすることだろう。同じ学院の生徒たちにとって、カーヴェはここ数十年における妙論派屈指の人材であり、名高いデザイナーなのである。優れた作品で、カーヴェは教令院の歴史に己の名前を刻み込んだ。妙論派の学生たちが道端で彼について議論する場面を目にすることがあれば、カーヴェの業績について聞くことができるはずだーーアルカサルザライパレスを単独でデザインした上に、オルモス港のランドマークとも言える古灯台を修復し、港口のリフトや貨物運搬システムを改造。おまけに森林や圏谷地形の空間最適化方法を最初に発表する…などなど。
これほどの成果を収めた「カーヴェ」の名は多くの人にとって、もはや単なる名前ではなく、ある種のデザイナーキャリアの代名詞にもなっている。多くの人が、カーヴェのような経歴を辿ることを望んでいるのだ。学院でずば抜けた才能を見せ、卒業後は大手の各建築関連事業者から内定を得て、数年のちには独立して個人名義で仕事をする…
しかし、世間が理解している彼の経歴は、ここまでだ。数々の業績の裏に隠された真実を知る者はほとんどいないが…それこそが、彼のずっと隠していることだ。無論、彼が優秀なデザイナーであることは確かだが、そんな彼も人々が思い描くような完璧な生活は送っていないのである。
過去の経験から、彼はこう言うだろう。誤解は避けられないトラブルだ、と。人はたまに、固定観念に自己の判断をゆだねてしまうことがある。例えば「デザイナー」と聞いて、人々が最初に思い浮かべるのは、ほんの少し指を動かして筆を走らせるだけでお金を稼ぎ、名声を手にできるという夢であろう。また、「芸術」と聞けば、浮かんでくるのはチャラチャラとしていて自己中心的で、陰気かあるいは短気な性格で、あごで人を使う…などといった、どこから来たのかも分からない変わった人物像だ。
しかし、カーヴェは前述のイメージとはまったく合致しない。筆を走らせるだけでデザインを完成させることなど出来るはずもなく、いつも一つひとつの仕事と真剣に向き合っている。彼は成功者の恰好をしているが、その実、報酬だけでプロジェクトの良し悪しを判断することはない。スメールの大多数を遥かに超えるデザインへのこだわりを持つ彼は、デザインの根本に芸術性を置きながらも、人文的意義や実用性をおざなりにしたりはしない。そのため、プロジェクトを進める中で、何かを犠牲にせねばならない場面が出てくる。それは、時に休憩時間であり、時に芸術の装飾的効果であり、そして時に己の報酬だ。
長年の下積み期間を経て、カーヴェはついに成功した。アルカサルザライパレスが落成した後、彼はスメールに名を轟かせたのだ。同業者は巨木の上に聳え立つ伝説的に優れた宮殿に感嘆の声を漏らし、デザイナーの自由奔放な想像力に驚き、様々な価値を融合した美しさに酔いしれた。ーー建築的機能と文化的佇まいを集大成した、贅沢な工芸美と建築自体の精確さ、精巧さを併せ持つ存在。この作品は山々に包まれた辺り一帯の雰囲気を一新した。アルカサルザライパレスが大いに成功した試みであることを、認めない者はいないだろう。
しかし、彼自身のポリシーやキャリアでの境遇などの積み重なった問題から、カーヴェがこのプロジェクトで破産した件について同業者たちは未だ何も知らない。真実は、成功の裏に隠された苦労のように、カーヴェが努力して隠し続けているのだ。


キャラクターストーリー2
カーヴェはスメールの典型的な学者家庭に生まれた。父は明論派出身で、教令院に勤めていた。母は妙論派の卒業生で、カーヴェと同じく有名な建築デザイナーだ。両親の影響を受け、カーヴェは子供の頃から建築デザインに興味を示していた。両親が買ってくれた積み木で彼が遊んでいたとき、両親はリビングに座っていたものだった。
たとえ言葉が交わされなくとも、家とはある種の「雰囲気」として、そこに存在するものである。カーヴェの「家」に対する価値観は、あの頃に形成されたものだ。
しかし良い時というのは、いつまでも続くものではない。カーヴェが教令院に入る前のある年、父は息子に背中を押されて、教令院が主催する学院トーナメントに参加した。試合自体は複雑なものではなかったが、有望な優勝候補とされていたカーヴェの父はチャンピオンになれなかった。そればかりか、試合が終了したのち、失踪してしまったのだ。
その後、父が砂漠で事故死したという訃報が届くまで、そう時間はかからなかった。あまりに突然の出来事に、残された母子は混乱に陥った。特に、カーヴェの母はかなりショックを受けた。生来敏感な人であったために夫の死からなかなか立ち直れず、長い間不安感を抱え、憂鬱な気分から抜け出せないでいるようだった。そしてカーヴェもまた目を閉じて眠るたびに、出かける直前に冗談を言い、「いい手土産を持って帰る」と約束してくれた父の姿を何度も夢に見た。幼いカーヴェは気づいてしまっていたのだ。もし自分が提案しなければ、父は試合に参加しなかったかもしれないーーそうであれば、失踪することも、死ぬこともなかったのかもしれないと。しかし彼がどんなに願おうとも、起きてしまったことは変わらない。父の死も、母の苦しみも…取り返しのつかないすべての出来事の起因は、自分が口にした、たった一言だった。その日から、カーヴェの人生はすっかり罪悪感に囚われてしまった。
父は善良な優しい人で、こういう人と一緒に暮らせて幸せだと、母は言っていた。父が亡くなった後、母が再び笑顔を見せることはなかった。こうして、「家」は暖かい日の差し込む聖域から、冷たく淋しいただの部屋に変わり果てた。ソファに座った母が、己の震える両手を呆然と見つめる姿を、カーヴェは何度も見た。母の頭の中は真っ白になってしまったようで、彼女は何も描けなくなった。そんな母を見るたびに、カーヴェは見えない手によって押しつぶされたような心地になり、自分に問いただしたーー僕があんなことをしなければ、この家はこうならなかったはずなのに。
当時のカーヴェはまだ幼く、できることも限られていた。しかし、負い目を感じていた彼はできる限り母に付き添い、落ち込んだ表情を見せずに、ありとあらゆる面で支え続けた…焼け石に水だと分かっていても。
落ち着かない日々が過ぎ、教令院に入学する歳となったカーヴェは、妙論派に入った。息子が入学すれば、母子が一緒にいる時間が減ってしまうのは仕方のないことだ。気分転換にと、カーヴェの母はフォンテーヌへ赴き、その期間中に現地で仕事の誘いを受けた。スメールに戻った彼女は、カーヴェにその良い知らせを伝えた。母がフォンテーヌに行けば、寂しい生活を送ることになると分かっていたカーヴェであったが、それでも彼は喜んで賛成した。そして母がスメールを発つ日、見送りに出掛けた。
…船が出港してからかなりの時間が経っても、カーヴェはずっとそのまま、遥か遠くを眺めていた。どうしようもなく名残惜しかったが、母にとってはこの哀しすぎる場所を離れるのが最善だったのだとも分かっていた。彼女に幸せになってもらうために、カーヴェは己の孤独な気持ちを認めないと決めた。自分はもう大人で、一人で生活しても絶対に大丈夫だと、母と約束したのだ。もしもある日、孤独に苦しみ、バラバラになった家族のために眠れなくなったとしても、それは自分が父に試合への参加を示唆したことの罰だ。父を死なせ母を苦しませた罪人には、どんな報いがあろうと当然のはずで、自分はこの烙印をずっと背負って生きていかなければならない。
こうした考えが、その後も彼の中にはあり続けた。家庭はカーヴェに思いやりの心を教えたと同時に、彼から人を傷つける能力も奪ってしまったと言える。そのためか、それからの幾年も、カーヴェはずっと個性と理想に囚われ、求められるままにどんな人のことも力を尽くして助けた。抗おうとしたこともあったが、本気で他人と敵対できなかった。そして常に善行を重ねているのに、それでも不安を感じずにはいられず、時に罪悪感に蝕まれた。それだけではない…彼は純粋な好意に応えることができない。何かを決断する度に、自分は罰を受けてしかるべきだと、苦しみの中にこそ慰めがあるといつも考えてしまうのだ。
カーヴェを彫像に例えれば、彼はどの角度から見ても完璧だ。しかし、核となる脆弱な一点さえ見つければ、それだけで全体は完全に打ち砕かれてしまう。


キャラクターストーリー3
卒業直後、カーヴェは同じ学院の先生や同級生のチームでプロジェクトの手伝いをしていた。デザインを任されていたが、駆け出しの彼は作業量の重さに押しつぶされていた。しかし強がりの彼は弱音も吐かず、すべての時間と精力を仕事に注ぎ込んだ。丸二年間、彼は様々なプロジェクトに呼び出されて、昼夜を分かたず他人のために働いた。
十分な経験を積んだ後、カーヴェは協力していたプロジェクトを離れ、個人の名義で仕事を受け始め、彼のスタイルを気に入ってくれる客を抱えるようになった。彼に設計を依頼してくる人は少なくなく、これが彼の事業の始まりだった。頑張り屋の彼はまとまったお金を貯めることができた。しかし、しばらく経つと、カーヴェはキャリアのスランプに陥った。実際の市場は学校でのデザインとはうって変わって現実的で、ある意味、現金とも言えるものだったのだ。それに、顧客の要望は指導教員の要望よりもさらに満足させにくい。また、スメールの学術的風潮もカーヴェに大きな影響をもたらした。誰かが言っていた通り、自身の理想とキャリアは簡単には実現できない…そうカーヴェは気づき始めた。
スメールの学者たちは新たな流派や観点を次々と生み出していく。そうした中で自己批判、自己懐疑を始める者は少なからずいたが、社会の進歩と変化はこれらの考え方を後押ししたのである。過去に称賛されていたものは、いつか批判の対象になるかもしれない…書籍や、芸術がそうだったように。
真に芸術に打ち込んでいる者以外に、芸術家がスメールでどんな扱いを受けているか、知る者はいなかった。教令院の学術的成果への崇拝と渇望が激しくなるにつれて、学者たちはますます単純に学術そのものと実用的な技術のみを信奉するようになった。六大賢者のやり方は極端になり、「芸術は無益」という見方がだんだんと主流になっていった。芸術従事者はのけ者にされ、芸術と関連する学科でさえ、いつの間にか芸術の要素を取り除くようになった。
カーヴェが担当していたプロジェクトの多くは、流れ作業だと思われていた。彼がプロジェクトのために提案した様々な美しいデザインは、「意味のない過度な装飾」「プロジェクトに必要なのは実用的な建築のみ」と言った理由で、すべて却下された。彼はかつて、人々のために芸術の美と実用的な価値を兼ね備えた良いデザインを目指していた。しかし、芸術が笑いものにされ、人々が芸術の存在する必要性と価値を否定してしまえば、カーヴェは自由にデザインすることなどできない。建築は芸術であることを貫くカーヴェは、芸術が無益という見方に断固反対するが、職業上、彼にはどうしても技術的サポートと投資が欠かせないのだ。そうすると、彼は輪から脱することも、自分の本音を言うこともできない。もしそんなことをして資金提供から手を引くと言われてしまえば、多くの人を巻き込んでしまうからだ。
夢とキャリアの挫折を経験したカーヴェは、長い休暇を取った。家に帰ると、思いがけないことにフォンテーヌから手紙が届いた。母からの手紙にはこうあったーー残りの人生を託す相手を見つけた、フォンテーヌで再婚する、と。不安と期待を胸に、彼女はこれを唯一の肉親に伝えたのであった。
カーヴェは手紙の返信で母の幸せを願うとともに、心から祝福した。そして、フォンテーヌでの結婚式にもはるばる出席した。参列者は僅か数名しかいない、簡単な式だった。再び母の笑顔を見ることができて、カーヴェはとても嬉しかった。しかし、次に襲って来たのはどうすればいいのかわからない、行き場のない感覚だった。
母はスメールにあるすべての財産をカーヴェに残した。三日後スメールに帰った彼は、家の中がどんなに空っぽだったかということに、改めて気が付いた。ソファに座っただけで、人生に孤独を感じてしまうほどに。…まさに、昔の偉い学者が言った通りだ。「正しいと思うことをしなさい、たとえすべてを捧げることになっても」ーー


キャラクターストーリー4
建築業界にいる期間が長くなるにつれて、社会の現状に対するカーヴェの不満は募っていった。そんなある日、彼は突然転機に恵まれた。大商人のサングマハベイ様が彼を訪ね、豪邸を作ってほしいと依頼してきたのだ。
業界でかなりの名声を博する「サングマハベイ様」が、実はドリーという、莫大な富を築いた気前のよい人物であることを、カーヴェは彼女に出会うまで知らなかった。彼女が邸宅に求めたたった二つの要望は、「広く、豪華に」。カーヴェはデザインのスタイルや細かい要望についても聞いてみたが、ドリーはさほど関心がないようだった。カーヴェが今までに抱えたすべての顧客と比べても、ドリーはかなり変わっていた。彼女は商売をするが、学者が何を考えていようがあまり気にしない。彼女が豪邸を静かでひと気のない場所に建てたい理由は、商売上必要だからだということらしい。深くは尋ねずに、ただ人に畏敬の念を抱かせるような豪邸を作ってくれればいいと、彼女はカーヴェに助言した。そして芸術性に関して、ドリーは感心も示さなければ、反対することもなかった。
目の前にあるこの仕事がどれだけ有難いものかということに、カーヴェはすぐ気が付いた。制限なしの豪邸ーーつまり、彼はやりたいデザインを思いっきり貫き通せるのだ。依頼主が資金を出し、依頼を受けた人は力を尽くす。もとより、これが商売のあるべき姿だ。学術の流派によって本領発揮を制限されるなど、本末転倒。突如溢れ出たやる気のままに、カーヴェは徹夜で設計案を作り、依頼される身でありながらドリーに更なる修正を提案したーー本当の大商人様は山に住むだけじゃ足りない。歴史に名を刻む豪邸にするためには、もっと美しく、もっと伝説的なものにしないと!庭を付けるのはもちろん、そこに植える花も厳選しなければ。専門的な植物学者に意見を聞こう。構想は大胆に、提案は着実に。建物自体は実用性に重みを置きつつ、豪華にして…サングマハベイ様ご指定の倉庫と休憩室も増設しないと。場所は…北の山の崖が良さそうだ。これでサングマハベイ様は毎日、目を覚まして窓を開けたときに、山と川の絶景を目にできる。
ドリーは再三、崖はやめたほうがいいと止めたが、カーヴェは職人魂と芸術を追求するため、依頼主を全力で説得した。そうして始まった大掛かりな工事はカーヴェの監督の下、昼もなく夜もなく着実に進んでいった。
だが、理想とは叶え難いものだった。カーヴェはあらゆる要素を熟考して場所を選んだのだが、その年、死域の増加が大幅に加速するということだけはどうしても予想できなかったのだ。七割ほど工事が進んだ、ある静かな夜のこと。ひっそりと生まれた死域に、完成したものはすべて壊されてしまった。あちこちに散らばる残骸を目にしたカーヴェは、雷に打たれたかのような衝撃を受けた。これを聞きつけてやってきたドリーは憤慨し、プロジェクトから降りるようカーヴェに命じた。すぐにレンジャーたちが駆けつけて死域を処理したが、壊れた建物が戻ってくることはなかった。
このような機会は二度と得られるものではないと分かっていたカーヴェは、せめてアルカサルザライパレスが完成するまでは残りたいと、ドリーに何度も懇願した。しかしドリーは鋭く肝心な問題を指摘した。場所の変更を積極的に提案したのはカーヴェだった。建物が壊され、資金が水の泡になった今、彼女が責任を追及しなかったとしても、どのみち工事は続けられないだろう。もし建て直しになったら、損した分の資金は誰が出すのかーーと。
カーヴェは廃墟に座り込んで、一晩中考えた。彼には貯金と、両親が残してくれた住宅がある。そこはかつて彼の「家」であったが、今やただの抜け殻だ。そもそも、「家」とは何なのか?建築デザインに携わる彼は、誰よりもよくその違いを分かっていたーー家族を失った建物は、ただの家屋だ。本物の「家」なんかじゃない。
夜が明けると、カーヴェはスメールシティに戻って家を売り払った。そうして得たモラと、貯金、そしてドリーが支払ってくれた報酬をすべて工事に投じ、七割分の資金の穴を埋めた。足りない部分はドリーに立て替えてもらった。
そして美しく晴れたある日、ついにアルカサルザライパレスが落成した。カーヴェは己のすべてを捧げて、己のものではない伝説的な宮殿を作り上げた。プロジェクトは終了したのに、彼は一モラも得ることなく、そればかりか後半の工事が予算を超えたせいで、依頼主に大きな借金を作ることとなった。カーヴェは表面上抗議したものの、借金の現実は避けられないことを、心の奥底では分かっていた。そして、彼の心はまたも罪悪感に苛まれていた。サングマハベイ様は賢い商人だ。カーヴェは依頼主のためではなく、自身の理想のためにこうしたのだと一目でわかっただろう。
博打打ちがすべての財産を自分の理想に賭けるところを、商人が止めるわけがないのである。建築も所詮は商売だ。しかし、理想の価値というものは測ることができない。その後、カーヴェが帰る場所をなくしたのは、また別の話だ。


キャラクターストーリー5
破産した後、カーヴェはしばらく落ち込んでいた。アルカサルザライパレスは、様々な出来事で出来た彼の心の穴を一時的に埋めてくれたが、同時に彼に証明したーー理想を叶えるには、いくら捧げても足りないということを。彼は戸惑い、モラがなければ何もできない世の中に苦しめられた。幼い頃から強がりだったカーヴェは、破産して懐に小銭しか残っていないことを同級生たちに知られたくなかった。仕方なく酒場でやけ酒にふけると、一本飲み干した後、テーブルの横で酔いつぶれてしまったようで、起きても同じ場所にいた。
酒場のマスターであるランバドがいつも好意で彼に席と無料の飲み物を取っておいてくれるもので、お返しに、カーヴェは酒場の二階にある特別席をデザインし直してあげた。たまに酒場で教令院の学友に出会うこともあったが、カーヴェはここで酒を飲みながらアイデアを練っているフリをした。そうしてカーヴェは酒場に半月以上も居続けた。その期間に、彼はもう友人とは呼べなくなった「彼」に再会したのである。
カーヴェの昔の友人と言えば、知論派出身の現書記官アルハイゼンを抜きには語れない。学生時代のアルハイゼンは同年齢の者たちよりも遅れて入学したが、成績はずば抜けていた。人々は高い点数を取った学生がいることのみ知っていたが、それが誰で、普段どこにいるのかまでは知らなかった。その学生のことと言えば、妙論派の年配学者までが首を横に振り、賢すぎて扱いにくい天才だと評するほどだった。
その年、カーヴェは母との離別を経験したばかりで、孤独な日々を送っていた。彼は偶然図書館でこの後輩と出会い、好奇心に駆られるまま話しかけた。こうしてカーヴェは知論派の天才アルハイゼンと知り合ったのだ。しかしその後…一方的な思い込みに頼って友人を作ろうとしてはいけないと、時間が証明することになる。自分より二歳年下のアルハイゼンは才能と知恵に富んでいるが、個性や人となり、学術の方向性から理想と観念に至るまで、すべてが自分とは真逆の人間だということにカーヴェはすぐ気が付いた。
学院にいた頃、カーヴェは様々な思い出を作ったが、最も不愉快だったのは、やはりあの共同研究課題だ。二人は互いに才能を認め合い、古代建築と古代文字および言語学の研究を行うプロジェクトを始動することに決めた。カーヴェはアルハイゼンに、研究チームの提唱者になることを勧めた。最初、研究グループには他の学生もいたが、課題が進むにつれ、みんなついて来られなくなった。個人間の、あまりに残酷で直観的な才能の差に、カーヴェは初めて気が付いた。教令院は才能と学術資源を限界まで結び付ける。そのため、人々はある理屈を切実に理解している。アルハイゼンの言葉を借りると、一部のことに関して上限を決めるのが才能で、下限を決めるのが努力だという。一般人と天才はいずれ現実的な要因によって分けられるのだから、属さないグループに無理やり入ろうとする必要はないーーしかし当時のカーヴェは、それらは結果ではなく過程にある障害に過ぎず、知恵は多くの人によって共同で開発されるべきだと、頑なに考えていた。これ以上脱落者を出さないために、カーヴェは他の学生たちがやるべき仕事まで、己の時間と体力を割いて処理し、重い負担を自ら背負った。アルハイゼンはこれに始終反対していた…カーヴェがやることは理想主義的すぎる、と。学術は慈善事業ではないし、一時凌ぎの手助けでは現実を変えられないのだ。このようにして二人の意見は別れた。
そしてあるとき、ついにチームに残ったメンバーはアルハイゼンとカーヴェの二人だけになった。積み重なった問題は限界点に達し、一気に爆発した。カーヴェは、アルハイゼンは個人主義的すぎた、より多くの人を助けてやればもっとみんなに受け入れられたはずだと主張した。一方アルハイゼンは、カーヴェの現実離れした理想主義は現実逃避にすぎず、いつかは人生の負担になる。そしてその根源はカーヴェの内にある、避けられない罪悪感から来ていると指摘した。ここまで話してきて、何よりもカーヴェの心を刺したのは、最も親しい友人の核心を突く言葉だった。アルハイゼンは彼が長年直視出来なかった事実を突き付けた。そうしてカーヴェは初めて、現実に傷つけられた痛みを感じ、賢すぎるこの男と友人になったことを後悔したと宣言した。
別れた後、アルハイゼンはためらいもせず論文から署名を削除し、カーヴェは怒りのあまり、己が担当した箇所の論文を破った。しかし、しばらくするとまた後悔して、それらをかき集めて貼り合わせたのだった。カーヴェはあの友人を変えられないと気づいた。逆もまた然りだった。
後日、二人は学術的刊行物に何度も正反対の意見を出し、互いの論点に反駁し合った。『キングデシェレト文明の古代遺跡における古代文字と建築デザインの方向性についての解読』の研究はすでに、学術界に著しい進展をもたらしていた。言語学における成果について言えば、一部の古代文字における、欠けていた文法的理論の空白を埋めたおかげで、複数の重要な古文書の解読を可能にした。建築学における成果もなかなかのもので、一部スメールの特殊地形における家屋の耐力構造を最適化し、偏狭の地に住む民の生活を大幅に改善した。教令院はこれを奨励して、この研究プロジェクトに特別な研究場所を提供した。しかし、人材不足と、主たる研究者の価値観のすれ違いによって…このプロジェクトは最終的に中止となった。
研究課題の失敗は、カーヴェの人生における、消せない過去になった。あれから数年間、何度も挫折を経験したカーヴェは、独りよがりの考えを堅持することが必ずしも役に立つとは限らないことをようやく認めた。すべてを失って初めて、彼は過去の友人の言葉に含まれた深意を理解した。ーー何にも頼らず天上の花園へと登ろうとすれば、足を踏み外して落ちて死ぬことは避けられない。カーヴェは天才でありながら群集に憧れ、のけ者にされることを無意識に恐れている。彼とアルハイゼンの違いは、まさにそこにあった。
時を酒場のテーブルへと戻そう。それは数年ぶりの再会だった。カーヴェはたまたま酒を買いに来たアルハイゼンの出現に驚き、アルハイゼンは彼が置かれている最悪の現状を一目で見破った。長く生活に追い詰められていたカーヴェはすべての悩みを打ち明けた。問題はどうせ隠せるものではない。それに、唯一関係性が破綻しているこの友人の前でなら、取り繕う必要もなかったからだ。彼は様々な愚痴をこぼした。夜が更けて酒場をあとにし、かつて家だった方角を見るまで、彼は口を閉じなかった。アルハイゼンはと言えば、話を聞くと、またカーヴェのことを見透かしたように、答えにくい質問をしたーー「君の理想はどうなった?」
学者に間違いを認めさせられるのは現実だけだが、カーヴェは何が現実なのか分からなかった。逃げる必要など無いほどに美しい幻境を追い求める彼は、自分自身を代償として支払うことさえ厭わない。故に、この理想自体は間違いではなく、それを実現する自分の手段のほうが間違っていたと、彼は未だにそう信じていたのだ。
諦めてはいけない。たとえ彼の施した善行が埋め合わせのためだったとしても、それがもたらした結果は一部の人にとって有意義なことだった。理想の国に辿りつけなくても、その輝きが人々を惹きつけることは紛れもない事実なのだ。
幻のような現実…例えば、帰る場所をなくした彼がひょんなことから昔の友人の家に住み着いていること。この書記官名義の不動産は、まさに当時教令院が提供してくれた研究所を転用したもので、あの頃カーヴェがそれを放棄していなければ、余った学術資源も合法的なルートを辿って住宅になることはなかっただろうということ。アルハイゼンが無条件で善いことをしたりしないと知っているカーヴェは肩身が狭く、家事の手伝いを自ら提案したが、結局はすべての雑務を引き受けることになったこと…それらはドン底にいる人間にとって、一応の悩みではあるが、同時にあることを証明してもいる。変えられない友人こそが、人生の中で揺るぎない過去なのだと。理性と感性、言語と建築、知識と人情…これらの決して融け合うことのできないものたちは、いつも鏡の表と裏を、ないし世界全体を形作っている。


古い絵日記
革表紙の古く分厚い絵日記。落書きだけでなく、貼り付けられたものが大量にある。持ち主はこれを記念アルバムにしているようだ。
1ページ目:『建築製図の基本』、作:ファラナク。コメント:「母さんの著書。今こうして見てみると、印刷の色がちょっと思ってた色と違うかな?」
15ページ目:隠されたラフスケッチ。誰かの影が流砂に落ちるところが描かれている。隠された、というのは、前後の二ページがのりで貼り付けられているからだ。
コメント:「父さん…ごめん。何を書けばいいか分からない…ごめん。どうか僕を許して。」
26ページ目:一枚の課題申請表。コメント:「これは良い始まりだ。こんなに賢い協力者には、もう二度と出会えない可能性が高いだろう。」
31ページ目:学術メモと建築の図画。コメント:「僕たちの考えはまるっきり一致している。何一つ欠けのない、完全なものだ。」この一文は打ち消し線で消されている。
「僕たちの考えは相反するものだ。矛盾からは、多くの思弁と哲学が生み出される。」こちらの一文は残されている。
42ページ目:いったん破られ、つなぎ合わされた論文の表紙。コメントなし。
47ページ目:学内刊行物の抜粋。元のタイトルは不明だが、保存された本文の内容は以下の通りである。
「利己的な人間が知恵の終点を理解できないのは明白だ!たとえ誰もがこの広い学術の殿堂の一角を占めていると主張したところで、この俗世を形作っているものは結局人間であり、知識ではないということを、我々は理解すべきだ。媒体がなければ、知識は住処を失う。普遍的価値にはその名にふさわしい価値がある。大多数を否定しても、少数派の観点が認められるわけではない。例えば美学。美はずっと人の中にあった客観的な概念だ。一部の人間に理解されないからと言って、その価値を失うことはない。」
「自分自身を偉大な容器と考えているところが、まさに学者の狭隘なところだ。真理が個人のために存在している訳ではないと言うのは、分かり切ったことだ。この世の理は自然と共に在り、解釈されたかどうかに関わらず、それが変わることはない。客体の過信は自己開示とまったく同じであり、主体に自信がない現れなのだ。また、自身の観点に自信がある者は人称代名詞の複数形(例えば『我々』)を常用しない。俺なら一人でこの観点を十分に論証できると断言しよう。」
56ページ目:手書きの教令院の風景画。コメント:「もうここに戻ることはないだろう。でも、できればいつか、講師としてここに帰って来ることができたらいいな。」
次の二十ページは丸々、スケジュール表と図画付きのメモで埋まっている。筆跡は最初の方は整っているが、段々と雑になっていき、時間に追われていたことが見て取れる。メモを書いた人は仕事で忙しかったようだ。
85ページ目:ラフにしては繊細過ぎる、ある偉大な建築作品の設計図。コメント:「実行は可能だが、莫大なリソースが必要だ。細部を検討する必要がある。」
91ページ目:乱雑な落書き。めちゃくちゃになっている。コメントなし。
92ページ目:不動産の売買契約書。コメント:「衝動的だったと思う。でも、これが希望に満ちた可能性であることを考えると、どうしても抗えなかった。すべてがうまく行くといいな。」
101ページ目:いくつかの小さな落書き。コメント:「これでおしまいだ!書けない。明日はもう書かない。」
107ページ目:室内の設計図。ランバド酒場の二階のものらしい。コメント:「僕は果たして、もっと立派なことができるのだろうか?」
112ページ目:家賃の記録。コメント:「悪いことだとは言えないが、どうしてこうなったんだ!?あいつは絶対、理由もなく僕の身を引き受けたりはしない…ただ、僕はあいつに何ができるのだろうか?」
115ページ目:工具箱の設計図。コメント:「メラックは古代の言葉だ。これを工具箱の名前にしたい。『小さな光』という意味だ。何はともあれ、こいつが僕の言葉を本当の意味で分かってくれるといいな。」


神の目
学生時代のカーヴェは課題のために奔走し、幾度も同級生たちと様々な遺跡を訪れた。当時の参加者たちはみな若く、陵墓の奥深くまでは入れなかったが、収めた成果はかなりのものだった。
しかし、古代遺跡の探索にリスクは付き物だ。いくらプロとは言っても、参加した限りは、危険な目に遭うことは避けられない。とある調査の途中、学生たちのチームはかなりの危機ーー小部屋の崩壊に出くわしてしまった。カーヴェが、同行していた二人の妙論派の学生を陵墓から全力で押し出していなければ、彼らは中で命を落としていただろう。カーヴェ自身はと言えば、散々な目に遭った挙句、なんとか軽傷を負ったのみで脱出したが、同級生たちの気持ちの変化を止めることはできなかった。他人が成果を得られるようにカーヴェは手伝っているつもりだったが、結局大半の人は現状と己の能力の差に戸惑い、最終的には課題から降りてしまった。
カーヴェは「神の目」の存在を知っており、不思議な証は危険が訪れた際に与えられるものだと思っていたが、調査が進むなかで生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされてもなお、彼は神から眼差しを向けられず、己の力を尽くしてみんなを救い出した。
数年後、カーヴェは卒業して教令院を離れ、職に就いた。もう長いこと、彼は神の目のことや、それがどんな人間に与えられるかについて、考えなくなっていた。願いある者だけが、神の眼差しを受けられると言われている。しかし恐らく自分は、そういった人物ではないということだろう。
その後、カーヴェは味気ない日々を送っていた。彼はデザインで忙しくなり、一時的に追い詰められていた。芸術が認められず、彼は疲弊していたのだ。母はフォンテーヌで新しい家庭を築き、不動産やその他の財産を息子である彼に残した…どれも彼にはどうすることもできない、論ずる価値すらないようなことだったーー
アルカサルザライパレスが突如として現れた死域に破壊されたあの日まで。カーヴェは廃墟に座り込み、一晩中考えた。そして突然、とある考えが脳裏に浮かんだ。何も顧みず、すべてを捧げて目の前の夢を掴みたい…そう思った彼は家に戻り、関連機構に連絡して手続きを行った。偶然にも、不動産の売買がちょうど盛んな時期だったため、カーヴェは僅か半日で住宅を売却し、工事に投入するための資金を回収できた。
様々な雑用を処理し終えると、カーヴェは最後に長年生活していた旧宅に戻った。彼はピタパンで小さなアルカサルザライパレスを創り上げると、それをプレートに載せ、ソースとヨーグルトをかけて、精巧なデザートに仕上げた。
この料理は難しいものではなく、幼かったカーヴェは、父からこれの作り方を学んだ。しかし、父が亡くなってからは、あまり作らなくなっていた。今日はただの気まぐれで、久しぶりに味わいたかった。
厳密に言えば、これはカーヴェの一番好きなデザートではない。それでもこれを食べるために、築きあげられたアルカサルザライパレスを崩さなければならないとき、彼は喉の奥に苦いものを感じた。
そうして砕かれたピタパンの中には、輝かしい「神の目」が静かに横たわっていた。
カーヴェは信じられない心持ちでそれを眺めた。何年も遅れて、それはやっと彼の目の前に現れたのだ。それはあまりに眩しく、まるで天上にある幻の国のようだった。しかし幸い、それは理想と比べれば、こんなにも近くにある存在だ。

ガイア

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キャラクター詳細
ガイア・アルベリヒは、造酒名家「ラグヴィンド」家の養子である。
彼がディルック・ラグヴィンドを「義兄」と呼ばなくなってから、随分長い時間が経った。
今のガイアは、西風騎士団の騎兵隊隊長。頼れる行動派で、ジンから信頼されている人物である。
そして、このモンドで何かアクシデントが起こった時、その後始末をするのはいつもガイアなのである。


キャラクターストーリー1
面白いことに、この騎兵隊隊長と最も遭遇できる場所は、騎士団本部ではなく、夜の酒場だ。
ガイアはよく一人でカウンター席に座り、モンドで有名な混成酒「午後の死」を飲みながら、酒好きなモンドの住民たちと会話を楽しむ。
彼は、モンドの酒飲みと年寄りの間で特に人気があり、「安心して孫娘を託せる男」という称号すらある。
会話を楽しみながら、ゆっくりと酒を嗜む。これほど親しみやすい男を、西風騎士団の騎兵隊隊長と結びつけることは難しい。
ガイアの酒の相手は、すでにほろ酔い状態の狩人もいれば、酒好きな盗賊もいる。しかし警戒心がどれほど強い者でも、ガイアの前ではつい本音を漏らしてしまう。
その後が悪夢となるか、それともなんともない冗談で済むか、それは相手がうっかり話してしまった内容次第である。
「誰もが秘密を持っているが、皆がそれを正しく扱う方法を理解しているわけではない」
少し憎たらしい微笑みを浮かべながら、ガイアはそう言った。


キャラクターストーリー2
「正義は絶対的な原則ではなく、武力と策略のバランスによってできた結果だ。だからその過程で…あまり自分を追い詰めなくてもいいかと」
大団長ファルカの前で、ガイアはそう口にしたことがある。
結果が期待通りであれば、結末がどんな形であろうと、ガイアは気にしない。
その考えが、彼の型にはまらないやり方と、自由気ままな態度を作り上げた。まるで、刺激の強い「午後の死」のようである。
しかし、このような自分勝手なやり方は、多くの批判を招くものだった。
ある日、盗賊の首領を正面から討つため、ガイアは上古遺跡の守衛をわざと発動させ、敵の退路を断つことに成功した。しかし、それは同時に、自身と仲間を危険に晒すことになった。
こういう時、彼を信頼している代理団長ジンでさえも、頭を横に振るのだ。
しかし、ガイアはそんな事を少しも気にしていない。むしろ、他人に選択を迫られる状況を、楽しんでいるようにすら見える。
仲間が共に戦う時に見せた一瞬の迷いも、決死の戦いを前にした敵が恐怖を隠そうとする姿も、彼の大好物である。


キャラクターストーリー3
長い歴史を持つ醸造業はモンドに富を運び、そしてその富は盗賊と魔物を引き寄せた。
影に潜むそれらの根源は複雑で、集まる理由も様々である。モンドに侵入してくる盗賊と魔物に抵抗するため、ガイアは剣だけでなく、その頭脳とユーモアセンスをも駆使して敵を倒す。
ある若い騎士が、数年かけて観察し得た結果は、彼自身も信じられない内容だった──
名酒「午後の死」の出荷時期が過ぎると、城内外の襲撃報告は大幅に減る…
そしてそれは、次の「午後の死」が出荷されるとまた増える*始めるのだ。
若い騎士は緊張した顔つきで、報告書を情報整理に長けた騎兵隊長ガイアに見せ、彼からアドバイスをもらおうとした。
目の前の不安そうな騎士を見ながら、ガイアは怪しく微笑みながら答える。
「…いい考えだ、参考にさせてもらうぜ」


キャラクターストーリー4
普段のガイアはかなり饒舌な人だが、自身の過去に関することになると、口を固く閉ざしてしまう。
たとえそれが、大団長の命令であっても、彼は詳しく話そうとせず、当たり障りのない言葉で、自分の身の上を説明した。
「あれは十数年前、ある夏の日の午後。俺は父に連れられ、アカツキワイナリーの前を通りかかった」
「『ブドウジュースを買ってくる』そう言ったのを覚えている。しかし父は行ったきり、二度と帰ってこなかった」
「クリプス様が助けてくれなかったら、あの嵐の夜に、俺はもう死んでいたかもな」
理にかなった説明に聞こえるが、それは真実を隠すための嘘だ。
あの午後にあった本当の出来事を、ガイアは誰にも教えたことがない──
「これはお前のチャンスだ。お前は我々の最後の希望だ」
父親が彼の薄い肩を強く掴んでいる。
その目は、彼を通り抜け遥か遠い先を見ていた。
地平線の果てに、親子の故郷カーンルイアがある。
ガイアは、あの憎しみと期待が混ざった眼差しを忘れることはない。


キャラクターストーリー5
数年前、モンドにいた一際目を引く二人の少年を、今でも多くの住民が覚えている。
一人目は完璧な紳士、ディルック。在りし日の彼は、剣を執る優雅な剣士で、優しい笑顔と自信に溢れる姿が印象的だった。
もう一人は異国の風貌を持つ庶務長ガイア。あの時の彼はディルックの友人、協力者、そして「頭脳」であり、ディルックの戦いの後始末をしていた。
彼らは、まるで心が通じ合う双子のように、表と裏からモンドを守り、一度も失敗したことがなかった。
…あの暗い日までは。ディルックが護衛をしていた馬車隊が、森で魔物の襲撃を受けたのだ。
あれは、ガイアにとって初めてで唯一の失敗だった。
彼は急いで現場に向かったが、到着した時はもう何もかもが終わっていた。
彼とディルックの「父親」は、正体不明の力を操って魔物を撃退したが、その力の反動により命を落とした。
ガイアもディルックも目の前の光景に呆然とし、騎士が持つべき冷静さを失っていた。
「クリプス様のような人でも、危険な力に手を出すとはな。」\*悪い考えが頭をよぎり、ガイアは微笑んだ──
「この世界は、本当…面白い」
共通の「父親」を失った夜、二人の少年は別々の道を歩き始めた。


ある名簿
騎士団の公文書に書かれた名前のリストが、『アンゲロス探偵集』に挟まれている。
リストにはモンド内や郊外の盗賊、傭兵と宝盗団の中高層人物の名前及び、その活動範囲や個人情報が記載されている。
そのうちの十数人の名前が丸で囲まれており、隣に「退屈すぎるとまずいから」と書かれていた。
このリストに対しガイアは「酔っ払って適当に書いたのだ」とコメントした。
ガイアが、わざとこのリストを見せてくれた気がしてならないと思うが、その証拠はどこにもないのだ。


神の目
ガイア・アルベリヒが「神の目」を手に入れたあの夜、モンドの空から大雨が降っていた。
この日の午後、クリプス・ラグヴィンドが無理やり邪な力を使用し、結局「邪眼」のフラッシュバックに襲われた。父を苦しみから解放しようと、ディルック・ラグヴィンドは自らの手で父にとどめを刺した。
養子であるガイアは隣で見ていただけであった。養子の彼は親子の惨劇に溶け込めなかった。
あの夜、クリプスを弔うようにモンドの空から大雨が降っていた。
ガイアには人に知られていない一面がある──彼はカーンルイアがモンドに送り込んだスパイであった。この使命を果たすために、生みの父はガイアを異国に見捨てた。当時のガイアを引き取ったのはクリプスとモンドであった。
カーンルイアとモンドが戦争になったら、どっちにつく?自分を見捨てた生みの父と自分を引き取ってくれた養父、どっちを助ける?
長い間、ガイアはこの答えのない問題で苦しんでいた。本音を言わない彼にとって、忠誠と使命、真心と幸福は同時に手に入れない。
だがクリプスの死がこのバランスを崩した。苦しみから解放されたと同時にガイアは自分の利己的な気持ちを恥と思った。養子であった彼はクリプスを救うべきであったが、彼は間に合わなかった。義兄弟として彼はディルックと共に苦しみを分かち合うはずであったのに、彼はただ後ろに隠れて古い陰謀を考えていた。
罪悪感に追われて、ガイアはディルックの部屋のドアを叩いた。土砂降りの雨が嘘の匂いを洗い流し、ガイアの秘密は暴かれた。
ディルックが憤るのをガイアはもう予想した。兄弟二人が剣を抜き相手に向けた。嘘つきの報いだと、ガイアは心に思っていた。
だが戦いが始まると、ガイアは初めて身体中に迸る凄まじい元素力を感じた。今までディルックの影響で彼はずっと自分の実力を隠していた。全力を出して自分の兄と向き合ったのは今回で初めてであった。
冷たくて、脆い元素の力が剣先を経由しディルックの炎へと。赤と青の力がぶつかり、凄まじい嵐を形成した。そしてガイアの「神の目」はこの時に誕生した。
あの日から、ガイアと彼の義兄弟の間に少し変化が起こった。だが彼は一切口にしない、自分の「神の目」の由来を教えないように。
たとえそれが全力の一戦の記念、家族に本音を語った結果でも、ガイアはそれを自分への警告としか思っていない。そして嘘の重みを背負いながら生きていくと。

楓原万葉

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キャラクター詳細
楓原万葉という人間に初めて会った時、ほとんどの人は「南十字」武装戦隊の見習い船員だと思うことだろう。
万葉は温厚な性格の持ち主であり、暇を見つけては詩を吟じ、人と会話するときも気ままに語るからだ。彼が稲妻幕府から指名手配されている危険人物であると誰が想像できるだろうか。
温厚な少年から繰り出される刃はとてつもなく鋭い。人の心を読むのが得意な船長の北斗でさえ、万葉を受け入れる判断を下すまで彼が百戦練磨の強者であることを見抜けずにいた。
風と雨が、その少年の尖った部分を削ったのか、それとも彼が自身の尖った部分をわざと心の内に隠しているのか、それは誰にもわからない。


キャラクターストーリー1
璃月の「南十字」武装船隊は一年を通してほぼ海に出ているため、船員たちは皆、異国の地を目にすることに慣れている。それどころか、旗艦「死兆星」号には他国出身の船員もいるほどだ。
その船員は「死兆星」号が稲妻の港ーー離島に停泊した時に加わった。
船長の北斗はその若者と親交があり、彼がやって来るや否や「こいつはしばらく船に滞在する、みんな面倒を見てやってくれ。」と部下たちに告げた。
船員たちは、北斗の人を見る目を信じて疑わない。それに、その稲妻人は武芸に秀でており、さらに天候の移り変わりを見抜く力を持っていた、たとえ彼の素性がわからなくとも、彼が船に滞在することをみなは受け入れた。
しかし、隠されたことを知りたくなるのが人の性というもの。船員たちは彼の素性を知ろうと、様々な口実を作って過去を探った。
「稲妻で作られた刀っつうのは、切れ味が半端ねぇって聞いた。身分が高けれ高いほど業物を持てるらしいんだが…お前の刀はどうなんだ?やっぱり凄いのか?」
「……」
ただ、返ってくるのは沈黙だけ。
いくら探ろうとも答えが返ってくることはなく、船員たちは次第に諦めかけていた。
しかし数日後、重佐という一人の船員が放った何気ない文句に対し、意外にも言葉が返ってきた。
「おい稲妻の、名前を言わないんじゃ、どう呼べばいいかわからんだろ…」
船員はタコだらけの手で汗を拭いながら、愚痴をこぼすように言った。
「姓は楓原、名を万葉と申す。元は浪人であった。拙者を受け入れてくれたこと、誠に感謝いたす。万葉と呼んでくれて構わぬでござるよ。」


キャラクターストーリー2
万葉は平民の出身ではない、彼はかつての稲妻における良家――楓原家の末裔である。
数々の一族が名を連ねる稲妻城で、楓原家は強大な力を誇っていた。しかし、時代とは移ろいゆくもの。万葉が家督を継いだ時には、楓原家は廃れた荒山のようにすでに衰退していた。
当時の万葉では手の施しようもなく、借金で屋敷は差し押さえとなり、家来は散り散りとなってしまった。しかし、彼は逆に胸をなでおろしたという。これを機に浪人となり、世を渡り歩くのもいいと思ったからだ。
山や竹林、自然の中を巡ることは万葉の夢だった。彼は幼い頃から、自然の美しさと趣を心地良く思っていた。
万葉にとって、自然は静かなものではない。それらはいつも独特な言葉で心情を語っているのだ。
風が突如止み、すべてが静まり返る。即ち空が涙を落とす前の静けさ。澄んだ泉が跳ね上がり、地面が揺れる、即ち大地の怒りの表れ。
これらは自然が彼に授けた特別な感性である。万葉は生来、名声や誉を追い求めるような性格ではない。一族の負担が肩から下りたからこそ、気ままに旅へ出ようと、そのように考える人間だった。
こうして、中庭の落ち葉が風に乗って空へ舞うように、万葉は旅に出た。


キャラクターストーリー3
旅をするには、ある程度の技能が必要である。風の音を聞き、雲を眺めることは、万葉の十八番だった。
稲妻城を離れた後、万葉は各地を旅した。旅に出てからというもの、何もかもが一変した。天と地、山と海が彼の最も親しい住み家となり、雲の下を歩きながら風と水の音を聞くことで、身も心も癒されるようになっていった。
旅の途中で見聞きしたものは、旅をより一層新鮮で刺激あるものにした。そのような心境の中、万葉は南方のとある山を訪れた。
初夏、雨の多い季節、山道はぬかるんでいた。日が暮れていくのを見て、雨をしのげる場所を探していた万葉は、道の先に小さな小屋があるのを発見した。
旅の途中で偶然出会い、行動を共にしていた商人は、その小屋を見るなり興奮して甲高い声を上げた。「おい、見ろよ万葉!泊まれる場所があるぞ!」
しかし、万葉は黙っていた。しばらくして、万葉が口を開く。「拙者の意見を聞くのであれば、行かないことをお勧めするでござるよ。」
雨に濡れたくなかった商人は、万葉を置いて一人小屋へと駆け出す。
商人が戸を叩くと、中から美しい女性が現れ、彼を小屋の中へ招き入れた。香りのよいお茶、美味しい食事、暖かい布団、それらすべてを用意してくれた。
あまりの心地良さから、商人は食事をしている内に眠くなってしまい、そのまま眠りについたという。
目を覚ましたのは夜明けと同時だった。頭上にあったはずの屋根はどこかに消え、陽の光が直接顔に当たっていた。微笑みながら自分を見下ろす万葉が商人の視界に入る。
商人が口を開けて言葉を発しようとした瞬間、大量の木の葉と泥が口の中から吐き出された。暖かい布団などどこにもなく、あるのはぬかるんだ地面だけ。
「家屋のある場所では、風の音が他より小さくなるのでござる。しかし、あの小屋を前にしても、風はいつも通り吹いていた。拙者が思うに、おそらく化け狐による仕業だったのでござろう。…やはり旅をする時は、風の音に耳を傾け、目を見張ることが大切でござるな。」万葉は笑いながらそう言った。


キャラクターストーリー4
万葉は旅の中で数々の友と知り合ってきた。その中でも、ひと際強い絆で結ばれた者と、しばしの間行動を共にしていたことがある。
しかし、万葉とその友の目的地は異なっていた、旅の途中で二人は別々の道を行くことになる。
偶然の出会いではあったが、心の通ずる友であった。一度は別れたものの、またいつか会えるだろうと、万葉はそう思っていた。
だが、後に起きる出来事により、万葉のその思いは無残にも瓦解する――神の目を狩り尽くす「目狩り令」が将軍により下されたのだ。
万葉をはじめ、「神の目」を所有する者たちは皆、恐怖を感じた。彼らは身を隠しながら日々を過ごした。
そんなある日、万葉は耳を疑う話を聞くことになる。それは、ある人物が「御前試合」に挑もうとしているというものだった。そして、その人物とは万葉の友。
敗者は将軍によって罰せられるのが「御前試合」である。万葉の友は強者に勝つため、そして勇猛さとは何かを世に示すため、危険を顧みず御前試合に挑むことを決心したそうだ。
しかし今の時世、「御前試合」を仕掛けた本人が敗れれば、将軍の下す雷により命を落としてしまうかもしれない。
普段、冷静さを欠くことのない万葉でさえ、その時は動揺を隠せなかった。刀を持ち、天守閣へと乗り込む万葉。だが、時はすでに遅く…
刀は折れ、神の目は抜け殻となっていた。断腸の思いでその場を離れる万葉であったが、将軍に目を付けられ幕府のお尋ね者となる。
それ以降、万葉は幾度となく戦いに巻き込まれることとなり、生活は一変してしまう。
戦うことを恐れはしなかった、ただ延々と続く果てのない戦いに万葉は虚しさを覚えていた。
だが、彼は友を助けるため行動したことを決して後悔していない。自分を残し、勇猛な英雄として世を去った友を責めることもない。しかし…
「仁義を貫くためには、こうも他者と争わねばならぬのでござるか。」


キャラクターストーリー5
現在、万葉は「南十字」武装船隊の一員として、海上を旅している。
時に厄介事に見舞われることもあるが、「南十字」の船員たちのおかげでそれらも難なく解決ができている。
「死兆星」号の高い見張り台の上に座り、紺碧に染まる海と空を眺めながら、ようやく過去の日々を振り返る整理がついた。
刀を振り、自らの名誉を勝ち取る――武士たちは皆、そうした激動の生涯を望んでいる。
しかし、それらの中には欲望に駆られ「仁」や「義」を蔑ろにし、刀を使って果てのない憎しみに駆られる者も存在する。
世界は生きとし生けるものすべてに血肉を与え、神はその命を守ってきた。だがそれは決して、人々に刀で争わせるためではない。
己が持つべきは、人を殺す剣ではなく、人を活かす剣でなければならない。
武士の一生を懸け、そのただ一つの信条を守る、それが自らの歩む「道」。
そんなことを考えているうち、万葉は詩を書きたくなり、その言葉を座右の銘として残そうと思った。しかしその時、甲板から不満げな声が聞こえてくる。
「万葉、見張り台で空ばっか眺めてないで、降りて手を貸してくれ!」
操舵手の海龍が彼を呼んでいた、座右の銘についてはまたの機会に考えるとしよう。


神の目の抜け殻
あの大戦の中、「神の目」が一瞬光ったことに万葉自身も驚いた。
誰かの手を借り、再びこの「神の目」に光を灯したいと思ってはいたが、まさか最終的に自分の手で灯すことになるとは思ってもいなかったからだ。それはまるで、かつての友が後ろから支えてくれているかのような感覚だった。
「神の目」の抜け殻はそれ以外にも、万葉に様々な出会いをもたらした――
抵抗軍に迎え入れられ、姉君に救われ引き取られた。そして、噂の旅人にも出会うことができた…
この世に生きる以上、波乱に満ちた経験をすることもあるだろう。しかし、恵まれた出会いというものは確かに存在する。
山道のように勾配が厳しく、苦難に見舞われようとも、いつの日か雲の上へと至る時は必ず来る。それが人生というものなのだ。


神の目
早朝、霧のかかった崖とその小道、そこを万葉が一人歩いていた。
辺り一帯は静寂に包まれ、鳥の羽ばたきも虫の鳴き声もない。打ち付ける波ですら寝静まってしまったかのように、風の音だけが聞こえた。
その中で万葉は舌を出す、湿った重苦しい味を空気中に感じた。
雨が降る、そう万葉は悟った。
顔を上げ遠くを眺めると、視線の先に煙の立ち上る家屋がいくつか見えた。今夜はきっと宿にありつけるだろう。
万葉は家屋に辿り着くと、大雨が降ることをそこの家主に伝えた。最初は家主も半信半疑であったが、昼を過ぎたあたりから突如大雨が降り始める。
家主はこの旅人にいたく感心し、食事と寝床を提供してもてなした。
夜になり、窓の外は澄んだ空気で包まれていた。万葉は布団の上に寝そべり、雨が秋の葉を叩く音を聞きながら思いにふけっていた。
楓原家の財が底を突き、跡取りである万葉が旅に出てから、彼はいくつもの島を巡り、旅をする者の困難を数多と知ることになった。
稲妻の島々を行き来するには、本来海を渡る必要がある。しかし一人孤独に旅をする万葉は、自身の力のみで小舟を漕ぎ、ゆっくりと海の上を渡るしかない。向かい風や雷雨、数々の試練が旅を危険なものにしてきた…。
心が「空」であれば、天地万物すべてが「空」となり、心が「浄」であれば、天地万物すべてが「浄」となる。
手には刀、心には道、それさえあれば彼は何も恐れず、詩を吟じながら自身の道を歩んで行ける。
そうして気持ちを新たにした彼は、満ち足りたかのように深い眠りについた。
翌日、鳥のさえずりで目覚めると、万葉の腕の中には光り輝く神の目があった。

神里綾華

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キャラクター詳細
稲妻城で最も崇高なる三大名門の一つ――神里家を受け継いだのは、二人の兄妹である。
兄の綾人は「当主」として政務を取り仕切り、妹の綾華は「姫君」として家の事務を担当している。
綾華はよく社交場に現れるため、民衆との交流も多い。結果、人々により知られている彼女の方が兄よりも名声が高く、「白鷺の姫君」として親しまれている。
周知のように、神里家の令嬢である綾華さまは、容姿端麗で品行方正な人物であり、人々から深く慕われている。


キャラクターストーリー1
稲妻では、雷電将軍のところまで届かぬ事務は、そのほとんどが「評定所」によって処理される。
「評定所」の議事権利は三家に分かれており、三奉行と呼ばれている。すなわち――「社奉行」、「天領奉行」、「勘定奉行」である。
この3つの奉行権利を有する一族の名が、神里、九条、そして、柊。稲妻で知らない人などいないほど有名な御三家である。
そして神里綾華は、まさに社奉行神里家の令嬢、かの有名な「白鷺の姫君」だ。
なぜ彼女が白鷺の姫君と呼ばれているか、稲妻人はそれぞれ違った解釈を持っている――
「綾華さまは白鷺のように優雅で高貴な方です。見てください、あの澄んだ美しいお姿、知的で丁寧な言葉遣い。まさにお姫様ではないでしょうか?」
「綾華さまは、身分が高いとはいえ、私たちにも礼儀正しく、親身に接してくれるんです。彼女は優しくて寛大で、人々に手を貸すことを惜しみません。知ってますか?周りの反対を押し切って、庶民であるトーマさんを引き取ったのも彼女なんですよ。」
数々の意見があるが、「白鷺の姫君」の名の由来について、正確に言える者は誰もいない。
ただ、綾華が人々に慕われていることだけは、一目瞭然だろう。


キャラクターストーリー2
社奉行神里家の娘として、綾華は常に公家同士の権力争いに気を配らなければならない。
彼女は若くして天下に名を馳せた。そのため、時に、神里家兄妹に嫉妬する名門の子息たちに挑発されることもある。
公共へと向けた印象を作ることは、本来は形式主義である。だが神里家の場合は、その地位から、そのように無意味な慣習でも社会的な重要性を持っている。
稲妻の関係網に参加しなければ、社奉行の地位が揺らいでしまう。そのため、兄妹はあることに対して合意に達した。
兄の綾人は政務で忙しく、顔をあまり出さない。神里家の公共の場での印象は、上品で社交的な妹の綾華に任せている。
控えめでおしとやか、礼儀正しく優雅な綾華は、社交的な場での地位を確立している。潜在的な仕事相手との交渉も、気難しい貴族とのやり取りも、彼女は上手にこなし、非の打ち所がない。
また、お家の内部の事柄も、ほとんど綾華が管理している。彼女がいなければ、家はとっくに混乱に陥っているだろう。


キャラクターストーリー3
ある秋の午後。綾華が用事を済ませて家に帰る途中、偶然にも古い屋敷の中から年老いた歌声を聞いた。
屋内に住んでいたのは失明した老婦人だった。やせ細った指で弦をつま弾き、木製の琴から出る音はまるで水の流れのようだった。
耳が良かったからか、老人は足音に気付くと、門の外の人が誰なのか尋ねた。綾華は彼女に迷惑をかけたくないと思い、自分はただの迷子で、誤ってここに入ってしまった近所の住民だと告げた。
社奉行として、綾華は民をよく知っている。一目見てすぐ、この子供のいない老人が、よく晴れた日に路上で弾き語りをして稼いでいる人だと気付いた。
古くて時代遅れの曲、歌も然り。目が見えない老人は、すでに他人とは随分遅れている。永遠を追求する国にすら、このような苦労をして生きている人がいるのだ。
好意から、綾華は自身の身分を隠して老人と話をした。老人は彼女を普通の少女だと思い、琴の作り方や弾き方を教え、さらには自分が集めていた茶葉を分けた。
神里家に常備されている極上の茶葉と比べ、この粗茶は草の葉程度のものだろう。しかし綾華はそれを大事に受け取り、何度も老人に礼を言った。
この日、彼女は何度も両親のことを思い出していた。もしまだ両親が生きていたら、このように歳を取っていたのだろう。
家に帰った綾華はこのことを兄の綾人に告げ、老人から贈られた粗茶を二人で飲んだ。
その後、綾華は一定の期間ごとに老人に会いに行った。依然として付近の住民の名義で、彼女のために平民が愛用する生活必需品を贈っていた。
「町の緋櫻が咲きました。」綾華は微笑みながら老人に言う。「貴方の琴の音と同じように、美しく。」


キャラクターストーリー4
一般的な想像では、武家の生活は庶民とは桁違いのものだと思われているだろう。ならばきっと、高貴な神里綾華も、極めて贅沢な生活を送っているに違いない。
しかし、その考えは半分しか合っていない。
形から見れば、綾華の生活は確かに普通の民より凝っている。
普段は華道、茶道、名茶の試飲、珍しい花の鑑賞など、多くの費用がかかる。しかし、それは武家の令嬢として備えておくべきスキルであり、「放漫」というわけではない。
真に綾華を笑顔にすることができるのは、まさに庶民でも楽しめる普通のことだ。
お菓子を作ったり、池で金魚すくいで遊んだり、隠れて八重堂の最新小説を読んだり…どれも些細なことである。
そのような時の彼女は、人々に慕われる白鷺の姫君でも、神里家の屋敷を取り仕切る綾華さまでもなく、ただの「少女綾華」なのだ。
厳かなイメージを脇に置き、気ままに自身を表すこと。「少女綾華」として居る時だけ、重責を下ろすことができる。
深夜にお腹が空けば、使用人を避けながらこっそり厨房へ行き、歌を口ずさみながらお茶漬けを作る。茶道の授業の時、こっそりと茶葉の形で恋愛運を占う…などなど。
これまで誰にも言ったことはないが、綾華は自身が普通の少女でいる時間をとても大切にしている。なぜなら、このような自由な時間は滅多にないからである。


キャラクターストーリー5
様々な技能で綾華を指導している先生方は、みな、満足そうに言う――茶道、剣道、棋道、それらのいずれにおいても、綾華は完全に習得していると。
彼女は文武両道で、容姿端麗な武家の令嬢なのだ。そんな学生を指導できるのは、指導者としても嬉しいことに違いない。
しかし…本当に後悔はないのだろうか?綾華は静かにそのことについて考える。
茶の心、和敬清寂な正の心。
剣の心、鋭く勢いのある武の心。
棋の心、状況を判断する慧の心。
茶の心、剣の心、棋の心、すべて彼女の心である。それに加え、友人に対する真心も持っている。
綾華は彼女と同等に接し、肩を並べられる友人が現れることをずっと待っている。
その者は彼女を「社奉行」や「白鷺の姫君」とは見ず、礼儀や地位に制約されることもない。さらには数々の知識を知っていて、数々の物事を見てきた経験があり…時には、彼女に物語を聞かせるだろう。
そのような者こそ、彼女の親友になれるのだ。
「難しいことではないと思いますが…このようなお方は、いったいどこにいるのでしょうか?」


杜若丸
「あんたがたどこさ」
「稲妻さ、稲妻どこさ」
「神櫻さ、神櫻どこさ」
「影向さ」
「影向山には手まりがあってさ」
「それをみんなで遊んで取ってさ」
「見てさ、持ってさ、投げてさ」
「それを綾華ちゃんのもとへ」
これが幼少期の綾華が最も好きだった童謡である。
当時の彼女は最も気に入っていた手まりに「杜若丸」という名を付けていた。毎日色彩鮮やかな杜若丸を叩いて遊んでは、童謡を歌っていた。
綾華の歌声を聞くと、父と兄は思わず微笑む、彼女の遊びに参加する時もある。家族みんなで輪になり、順番に手まりを投げる。
しかしそれはすでに遠い昔のことだ。今の綾華はもう手まりで遊ぶことはない。
彼女は今や、一人前の大物だ。子供時代を象徴し、貴重な思い出が詰まった杜若丸も、綾華のたんすの中に仕舞われている。


神の目
何年も前、一族に大きな変化が起こり、兄の綾人に重責がのしかかった。その時、綾華はまだ今のように大人びておらず、能力もなかった。
彼女は元々、遊びが好きな子供であり、一族の責任などは知らず、様々な人物とやり取りをする技能も経験も不足していた。
しかし、病床の母と疲労した兄を見て、綾華は思ったのだ――一人前に成長しなければ。
そして彼女は、長い間やっていなかった剣術や詩と再び接した。これは武家としての基本的な教養であり、この二つを習得できれば、彼女はきちんとした神里家の令嬢として見なされ、兄の代わりに祭典などの場に出席することが可能になる。そうすれば、兄の負担も多少なりとも肩代わりできるだろう。
綾華は並外れた才能を持っているわけではない。かつては詩を覚えられず、字が綺麗に書けず、剣術も上手く繰り出せないことで悩んでいたほどだ。
しかし彼女が動揺したことは一度たりともない――一回で覚えられなければ五十回覚え、一回で上手く書けない字は五十回書き、一回で上手く繰り出せない剣術は五十回練習する。
「何千回も磨かれた素振りを止められる者はいない。」――それが、母が言った言葉であった。
母が亡くなってから、彼女は子供の綾華ではなくなった。今の彼女は、神里綾華。将軍の下にある三家の一つ、社奉行神里家の令嬢なのだ。
剣術の訓練はすでに日常生活の一環となっていて、始めた日から今まで、途切れたことはない。
何日目だろうか、綾華はついに敵を一撃で倒すことができるようになった。その瞬間、氷の花が道場内に咲き乱れ、道場の中心にいた彼女の刀の先には、氷のように明るい「神の目」がぶら下がっていた。
何千回も磨かれた素振りを止められる者はいない。それは、神さえ動かすことのできるものかもしれない。

神里綾人

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キャラクター詳細
三奉行の一人――社奉行神里家当主、神里綾人の名を稲妻で知らぬ者はいない。
しかし、優雅で心優しい「白鷺の姫君」綾華とは違って、兄・綾人に対する民衆の認知ははっきりとしたものではない。
人々はただ、彼が幕府の重鎮であり、名門貴族の当主であることしか知らないのだ。彼の詳細について聞かれた時、誰もが皆口をつぐんでしまう。
ある者はこう言う――「社奉行が主催する祭事や催しは、少しも手抜かりがない。それに、近隣住民の面倒もよく見てくださる。きっと奉行様の苦労あってのことだろう。」
しかし、またある者は言う――「ちっ、官界には公にできないもんが数多くある。裏のやり口を知らなけりゃあ、高官になんてなれないのさ。」
ただ、それらの言葉を神里綾人本人は気にしていない。
「私はただ…将軍様の下で真面目に仕事をし、職務を全うする役人に過ぎません。」


キャラクターストーリー1
稲妻名門の長男である神里綾人は、生まれた時から愛されて育ってきた。
両親は執務で忙しく、常にそばにいるわけではなかったが、それでも彼の面倒をよく見ていた。もちろん、日頃から「坊ちゃま」に色々と気を配ってくれた者も数多くいた。
年を重ねて少し大きくなると、綾人は父の求めに応じて、一族の「後継者」に足る能力を基準とし、複雑で難解な勉学に励んだ。
しかし、負担の大きな政務と一族復興の重圧から父は過労で重病を患い、不幸にも早くに逝去してしまう。
まだ年若かった綾人は、一族の地位が危機に瀕している中、権力争いの渦中へと身を投じることになったのである。
当時、まだ駆け出しであった若き青年に期待の目を向ける者など誰一人としていなかった。神里綾人は裕福な家で育った貴公子から、巷で噂される「神里家の可哀想な坊ちゃん」、そして政敵からは鼻で笑われる「見込みのない小僧」と呼ばれるようになった。
だが、その者たちの考えが間違いであったと、時間が証明することとなる。
当主の跡を継いだ神里綾人は、並々ならぬ大胆さと一流とも言える手腕によって、神里家の衰退をくい止め、一族の地位をより確固たるものにしたのだ。
手が回らなくなるほどの激務や悪意の潜んだ欺瞞、至る所に蔓延る詭謀…彼はそれらすべてを払いのけ、さらには自らに有利に働くよう利用した。
時が流れ、幕府と民から寄せられる社奉行神里家への声誉は、ますます高くなった。
今の神里綾人は紛うことなく、稲妻名門の筆頭格たる神里家の「当主」であり、要職に身を置く「社奉行様」だろう。


キャラクターストーリー2
社奉行は鳴神の祭祀を司り、また文化や娯楽活動の管理をしている。神に通じ、民衆と心を通わす、筆頭格に恥じぬ存在だ。
無論、携わる領域が広まれば、仕事の量が増えるのは必然のこと。
ただ幸いにも、妹の綾華が兄に代わって家業の大半を引き受け、社奉行と民の間でされる交流をほとんど担ってくれている。そのおかげで、綾人はより政務に専念できるようになった。
幕府の役人との交渉は簡単なものではない。所属する奉行、一族、立場、そのすべてが各々で異なっている。一つの事柄に対して関わる者が多ければ多いほど、それを遂行するのは困難になる。
綾人の強みは、それら事柄の対処に長けているところだ。彼からしてみれば、人の行動はすべて利益に準じたものであり、要所さえ押さえていれば、相手を妥協させることができるという。
標的に狙いを定め、相手を自分の理論に引き込む。そして建前を織り交ぜながら諭し、少しばかりの恩を売れば大方の問題は解決する。
もし仮に相手が考えを変えない頑固者であっても、より強い勢力を引き合いに出して制圧すればいい――どれだけ地位が高く、尊大に構えていようとも、天の威光を揺るがせる者などいない、そうは思わないだろうか?
教養があり、礼儀を知る神里家当主は、やがて幕府の中で高い名声を手に入れた。
「これは…なかなかに難題だな。社奉行様に聞いてみたらどうだ?」
人々は常々そう口にする。
ただ、数多の手段を持つ綾人ではあるが、いつでも手を差し伸べるというわけではない。
すべての事柄が社奉行と関わっているとは限らないからだ。その上、他の勢力の僅かな利益のために、神里家を巻き込むのは割に合わないだろう。
大半の場合、綾人が熱い茶を手に持ちながら微笑みを携え、相手を立てつつ話に付き合うだけに留まる。
「まあまあ、長岡様、そう腹を立てる必要はございません。皆さん将軍様のために動こうとしているのです。他意など誰も持ってはいません。腹の内を明かして話し合えば、必ずや共に解決できるでしょう。」


キャラクターストーリー3
その身分と仕事の制限から、神里綾人が人前に姿を見せることはあまりない。町中を出歩く時間も滅多に取れないほどだ。ただ、それら制限は彼の新しいものを追求することへの妨げにはならない。
――朝起きて剣の稽古をしていると、たまに八重堂の者が門の外からこちらの様子を伺っているのが見える。どうやら、また「報告の作業」に来たようだ。そんな時は気付かぬふりをして、彼女がどのような新しいサボり文句を口にするのか聞く。機会があれば、それを「さりげなく」八重宮司に伝えるのもいいかもしれない。
――天守閣へ足を運び、時代後れの頑固者たちと会合をする際、発言を急ぐ必要はない。いい歳をしながら顔を赤くし、些細な利権や利益で争っているのを見るのは、実に愉快だからだ。
――町の辺りまで来て、ふと独特の感性を持つ屋台があることを思い出す。新しい料理はないか、商売はうまくいっているかを店主に尋ね、新商品を試しに買って味見をする。それが興味深いものであれば、家の者にも少し持ち帰る。
――近ごろ花見坂一帯でよく見かける鬼族の青年は、虫相撲の腕があまり達者ではないようだ。親切心から少し励ましの言葉をかけてやり、彼を立ち直らせる。何気ない雑談の中で、この赤鬼が「綾人」という名が何を意味するのか知らないことに気付いた…だがそれでいい、改まって説明する必要などない。
――帰り道、鎮守の森を歩いていると、妖狸にいたずらされている通行人を偶然見かけたため、その幻を見破った。もしも今後、妖狸たちの変化の術がより熟練されることになったら、自分に感謝してほしいものだ。
――たとえトーマほど有能な者でも、夕食の献立が思い浮かばない日がある。そんな時には、鍋遊びを提案する絶好の機会だろう。綾華は毎回、予想だにしない食材を入れてくる。さすがは自分の妹。
これらすべてが、社奉行様の楽しみなのだ。


キャラクターストーリー4
執事と家司の尽力により、神里屋敷は内も外も整然としている。しかし、ただ一か所を除いて――
神里綾人が使用した後の文机は、いつも散らかっているのだ。
無造作に広げられ、そのまま伏せられた本。雑多に積み重ねられた大小様々な書類。使用後の硯と墨汁も片付けられておらず、文机の下には将棋の駒や紙札が散らばっていることもある。
当主様が執務を終えると、使用人たちは毎回、文机や書斎の片付けに時間を費やすことになるという。
その時、乱雑に置かれた紙の間に小さな便箋が挟まっているのをよく見かける。手に取ってそれを見てみると、便箋の筆跡はすべて異なり内容も様々。
「若、家来からまた新鮮な花が届きました。花瓶を置くために机の一角を少し片付けておいたので、また倒してしまわないようお気を付けください。」
「当主様、本日は鳴神大社の巫女がいらっしゃいました。宮司様からお願いがあるそうです。とても重要なことらしく、離島の一部地区の収用に関する内容のため、神社へとご足労いただきたいとのことでした。」
「奉行様、『百代』未だ枯れず。枝はまだ伸びております、ご安心を。」
「お兄様、この間、旅人さんと一緒にお祭りへ行き、新しい料理を覚えました。旅人さんが異国からいらしたことを考慮して、料理に手を加えるべきか迷っています…お兄様はどう思いますでしょうか?」
「当主様、使用人たちではこの件を口にする勇気がないようなので、この婆やからお伝えさせていただきます。食べたいものがあれば、どうぞ何なりと家司にお申し付けください。勝手に厨房の食材を使うのはどうかご遠慮いただきたく存じます…当主様に料理をさせるわけにはいきません。皆が困惑してしまいます。」
神里綾人は多忙なため、朝早くに出て、夜遅くに帰ることが多い。彼に会えない時、神里屋敷ではこのようにして彼と連絡を取っている。
これは綾人が考えた方法である。神里家ではこの小さな便箋が、屋敷全体を支えているのだ。
ただ残念なことに、この方法を使うと元より散らかっていた当主様の机が、さらに散らかることになる…しかし、気にすることはない。これは些細な犠牲に過ぎないのだから。


キャラクターストーリー5
稲妻では、とある柏木の葉を神に捧げて祈ることがある。
ただ、神を祀る儀式は稲妻に数多とあるため、規模の小さいものはよく見過ごされてしまう。
もう随分と昔のことだが、綾人には今も忘れられないことがある。それは母から聞いた話だ。その柏木は常緑の高木であり、葉は針状ではないらしい。葉は大きく、葉脈もとてもくっきりとしている。新たな葉が芽吹いても、古い葉が色褪せることはない。
そのため、それは「繁栄」を意味し、古くは食べ物を捧げる際の器としてよく使われていたそうだ。
現在では料理の盛り付けに葉を使うことはなくなったが、柏木の葉を捧げる習慣はそのまま残っている。
趣味の影響か、あるいは元より見聞が広く、知識が豊富だったからか、母はそれら祭礼のことになると淀みなく流れるように語る。
「神里家が代々社奉行を管理しているのは、生まれながらにして神を守る存在だからかもしれないわね。」
それに対して、幼い頃の綾人は完全に同意することができなかった。
神里家は神里家であり、家族のいる場所であると彼は考えていた。一族は家族がいてこそ存在するのであって、神に仕えることはただ流れに従って行う仕事に過ぎない。
しかし、このようなおこがましい考えを口になどできなかった。それに、興に乗って話をする母を遮るのはとても忍びない。
母がどんなに長く話しても、綾人は母の前に正座し、足が痺れても最後まで静かに聴いた。
歳月は流れ、綾人が成長すると、日々の時間を剣術と書物に費やした。「講師」は母親から父親に変わり、内容も祭礼の知識から一族の後継者に求められる必須科目へと変わった。
一族の責任という概念が、次第に綾人の生活における割合を占めていく。「雷電将軍」への認識も、もはや童心の中に浮かぶ幻想ではなく、正真正銘実在する神――稲妻の永遠と平和を守る大御所様となった。
「かつて、鳴神の恩恵を受けたことで、神里家は今日まで存続することができた。そのため何があろうとも、神里家は『永遠』の道を守護し、永久に将軍様に付き従う。」
「これは既に定まった約束であり、破ることの許されない一族の掟。しかと心に刻んでおきなさい。」
先祖の教えを読んでいた綾人は、その理由を既に少し理解していた。神里家の先祖が職務を疎かにした結果、国の重要な宝である「雷電五箇伝」に多大な損失を及ぼしてしまったのだ。八重宮司の進言によって将軍様の許しを得られていなければ、神里家は他の没落した有力者たちと共に消滅していただろう。
これは大御所様からの恩賜であり、神の眷属からの警告だった。
そのため、父の教誨に対して、神里綾人も当然それを踏み外すようなことはしていない。一族を守るという信念が何より大切であろうとも、彼は道理を弁えている――稲妻は雷神の守護により存続しており、稲妻の安定のみが、一族の長きに渡る繁栄を保証できる、と。
今後、稲妻の情勢がどのようになろうと、神里家だけは御建鳴神主尊に反旗を翻してはならない。
たとえ異議を心に秘めていようと、水面下深くにある暗い川の中に隠すのだ。
そう、かつて母が言っていたように――
神守の柏は古き枝をそのままに、新たな材へと生まれ変わる。
庭の椿は冬に呑まれることなく、澄んだ香りをかもし出さん。


夢見材筆箱
幼い頃にもっとも退屈であった習字の授業が、今や良い暇つぶしになるとは、神里綾人本人でさえ思っていなかっただろう。
昔、秀麗な字を書くために練習に励んだのは、神里家長男たる身分に相応しくあろうとするためであった。
しかし今、様々な詩歌を時折模写するのは、思考を整理して静かに考える時間を自分に与えるためになっている。
もちろん、それ以外にも理由はある。手の空いている時でもまるで政務に追われているかのように見せることで、面倒なことや会いたくない者を後回しにしているのだ。
やがて、彼の身の回りの世話をする使用人たちは、当主様は将棋以外にも書道を趣味にしていると思うようになった。
そして、この話は人づてに広まり、多くの人が知ることになる。慶事や誕生日が訪れると、綾人のもとには良質な筆が贈り物として届くようになった。しまいには、精巧で高価な羽毛筆を国外から仕入れ、奉行様に喜んでもらおうとする投機的な輩も多く現れる。
それに対し、綾人も特に説明をすることなく、精美な木箱を購入してそれら文具を収納した。
彼は元より目新しく珍しいものを好む。そのため、多種多様な新しい筆を試せるのは、実に愉悦を覚えることなのだ。
それに、様々な出自の贈り物には、贈り主に関する情報が含まれていることが多い。これら情報は綾人が彼らを掌握する手段の一つとなっている。
この筆箱は文具の収納のために買ったものだが、三つの特別な筆だけは未だその中に入れたことがない。
一つは作りが丁寧で、筆の持ち手は細く、社奉行の文机の上に直接置かれている。多少傷みはあるものの、書き心地はとても軽く滑らかであり、公文を書くのに使用している。
二つ目は、文机の一番下の引き出しにしまわれており、筆先が少し毛羽立っている。かつて愛用していたもので、子供の頃の習字の際に綾人が選んだものだ。初心者向けであるため、以前はよくトーマと綾華が借りていた。
三つ目は、骨董品が保管されているタンスの奥深くに隠されている。絹の袋に入っており、高級な素材と精巧な設計がなされたものだ。これは綾人が成人した日に、母から贈られたものである。


神の目
何年も前のある夜のこと。病気で寝たきりだった父が突然、綾人をそばに呼んだ。
その夜、病で疲弊していた今までと比べ、父の様子は少し違っていた。ただ、厳かな表情をしてはいるものの、彼の目に浮かんでいる心配の色は隠せていない。
どうにか気力を振り絞り、父は綾人に聞く――「今日の修行は終わらせたか?」「夕食はしっかりと食べたか?」「剣術の修行に進歩はあったか?」
綾人がそれに一つ一つ答えると、父は満足気に微笑みながら頷いた。しかし、すぐにまた顔に陰りが差す。何かを言いたいのに、言えずにいるようなそんな表情だった。
長い躊躇いの後、母の憂いに満ちた眼差しを受けて、父は重々しく口を開いた――
「綾人、これを…覚えておきなさい。この先、神里家がどのようになろうと、綾人は私たちの長男であり、綾華の兄であり、そして神里家の紛うことなき後継者だと。」
安心して休んでいただくよう父に伝えた後、綾人はゆっくり寝室へと向かった。
扉を開けてすぐ、光り輝く「神の目」が文机の上にあることに気付いた。
綾人は幼少の頃、「神の目」とは神の眼差しを象徴しており、人々の願いに応じて生まれるものだと聞いた。
何か大義があるわけではない。ただ、一族が末永く繁栄し、家族の安寧を守ることこそが、幼い頃より綾人の志すものである。
「神の目」がこの時分に現れたということは…彼が責任を担うべき日が来たということなのかもしれない。
そこまで考えを巡らせると、綾人は使用人に明かりを点けさせることなく、文机の前に正座した。
様々な事柄が、まるで渦潮のように彼の脳裏をよぎる――
父は重い病を患い、母も体調が芳しくない。一族には当主もおらず、政敵たちは神里家の地位と権力を狙っている。
妹はまだ幼く、心安らかな成長のためには己が身を賭して事に当たらねばならないだろう。幕府官界はまるで暗礁に囲まれた海域、何をするにも慎重でなくてはならない…
代々神里家に仕える「終末番」も当然見捨てることはできないだろう。神里家が衰退する中、周りにいる使用人にまだ信頼できる者がどれだけいるのか…
それから異郷出身のトーマについても。彼は友人であり頼りになる存在だが、低迷する神里家に対して本当に何も企てはしないだろうか…
乱雑に存在する事柄すべてが、綾人の脳内で整理されていく。その情報の渦の中心にあるのが、彼の変わらぬ信念だった――
未来のため、家族の安寧のため、使えるものは手段を問わずすべて使い、邪魔するものは一切の代価を惜しまず排除する。
その夜、室内には明かりが点くことなく、神の目だけが彼に付き添う唯一の照明となった。
黎明が訪れ、その日、最初の光が窓から文机に降り注いだ時、すべてを迎え入れる準備を終えた一族の若き長男がそこにはいた。

嘉明

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キャラクター詳細
遺瓏埠の埠頭で貨物が円滑に流通し、商隊と荷物が安全かつ効率的に璃月の各地や他の国へ辿り着けるのは、鏢師たちの護送のおかげである。
昔から、護送は決して簡単な仕事ではない。たとえ流通のルートが安定した今でも、道中には数多くの不確定要素が存在する。
雇い主が急にルートを変えることもあれば、顧客が受け取りを拒否することもあるだろう。また道中でコソ泥に遭遇したり、運悪く盗賊に遭遇したりもする。
剣鞘鏢局には有能な人材が揃っているが、顧客を怒らせることなく、賊にも問題なく対処できるのは鏢局を見渡しても一人しかいない——嘉明だ。
この能力に優れた少年鏢師を商会は当然指名し、自分の商品の輸送を任せる。鏢局の外でも、嘉明の人気は依然として衰えない。近所の人々が彼のことを話せば、皆が親指を立てながら奔走するこの親切な若者を褒めちぎる。
「こんくらいわけないさ!オレの獣舞劇を見に来てくれればそれでいい、時間があったらな。先に礼を言っとくぜ、ヘヘッ。」
助けてもらった人が礼を言ったり、お返しをしようとしたりすると、彼はいつもこのように冗談めかして言う。


キャラクターストーリー1
嘉明はお茶で有名な翹英荘の生まれだ。代々茶農家を営んでいたが、父・葉徳の代からは茶葉の売買を生業とするようになった。両親が力を合わせて経営したおかげで、葉家の商売は順調に繁盛していく。そして当然、父は息子に跡を継いでほしいと望んだ。
父と母が苦心したおかげで、嘉明は耕作に苦労することも、自ら起業する大変さも経験せずに済む。だが「この親にしてこの子あり」というように、かつて父が茶葉の栽培をする祖父の道を歩みたくなかったのと同じように、嘉明も心に決めた道を持っていた。
親子が譲ることなく対立した結果、嘉明は家を出ていき、その論争は一時的に中断されることになった。
家を出た後、人々が行き交う遺瓏埠へ行くことにした嘉明。生計を立てる手段は家を出る前から決めていた——小さい頃から大好きな獣舞劇だ。
意気揚々とした少年はまず急いで獣舞の道具を購入し、自己紹介のチラシを配って、劇をするための場所を予約した…遺瓏埠で足場を固めた後、璃月港に進出し、最終的には獣舞劇をテイワット全土に広めようと計画したのだ…
そんな懸命な努力の末、嘉明はそう経たないうちに、家を出る前から貯めていた夢の創業資金を使い果たしてしまった。
「獣舞劇を生業に?そんな簡単にできるわけがないだろう!?飢え死にしないだけで、ありがたいことなんだぞ!」
ちょうどお腹を空かせた嘉明の頭に父の言葉がよぎり、深く納得した。
「ここまで来たんだから、まずは飯の問題を解決しよう」と考えた嘉明は、まず自分を養うための仕事を探すことにした。
幸い、運命は鞭を振り下ろした後に飴をくれた。海灯祭が間近に迫っていたその時、あるフォンテーヌの商人を親切な嘉明は剣鞘鏢局まで案内した。すると、ちょうど鏢頭が人手不足に悩んでおり、嘉明は勢いで自分を売り込んで、臨時で雇ってもらったのだ。
毎日、獣舞劇の稽古をしている嘉明の身体は鍛えられており、そのおかげで疲れを知らない。結果、臨時の護送を終えた後、嘉明は鏢頭に誘われて正式な鏢師となった。
これも獣舞劇の腕で食べていけている…ということなのだろうか?とにかく、嘉明自身はそう思っているようだ。


キャラクターストーリー2
言葉は人と人が交流するための重要な道具の一つだが、嘉明が持つその「道具」は、彼の人となりと同じように独特で興味深い。
「あのさ、ぶっちゃけ『三長両短』なことがあって、『冬瓜豆腐』を食べるはめになるって想像したら、オマエのことが心配になってきたんだ…」
「えっ?何だって?何が長くて何が短いんだ?冬瓜と豆腐なら大好物だが…」
相手が戸惑っていると、嘉明は別の言い回しで補足し、必要に応じて手振りや身振りを加える。
嘉明によると、その話し方は翹英荘に嫁いだ母親譲りのものらしい。嘉明は生まれてからずっと、いつも彼女のそばにくっついていた。母親と共に過ごしてきた子供の嘉明は、自然と話し方や人柄がうつり、また彼女と似た習慣や趣味をたくさん持つようになった。
暇があったら早茶をして、体調が優れなければ涼茶を煎じ、料理を作れば必ず野菜を入れる…ちなみに、瓜や果物は野菜に入らない。
それらの習慣は別に鉄則ではなく、もし新しい提案をしてくれる友人がいたら、彼も喜んでそれを試すだろう。「四海兄弟」、そして「真心を持って人と接する」というのが嘉明の信条だ。
遺瓏埠の住民たちは皆、子供からお年寄りまで、嘉明と共通の話題を持つ。この少年と知り合ったばかりの人の多くは、その口の達者ぶりをただの社交辞令だと思う。しかし付き合いが多くなるにつれ、嘉明の厚意が本心から来るものだと気づくのだ。彼は時々、雑用係の篤勤に仕事を紹介したり、忙しい知貴氏の手伝いをしたり、鏢局の仲間たちのために璃月港から薬をもらってきたりする。さらに、会ったことのない子供に猊獣のおもちゃを贈ったこともあった。贈った理由は、獣舞劇を見るのが好きだと迭躍が言っていたからだ…
清き水のような友情だが、真心が大切である。だから、皆もこの熱心な少年に対して、同じように友好的な態度で接するのだ。嘉明が荷物を届けに来るたび、彼を部屋に招いて休憩させる人もいれば、早茶の時にいつも嘉明を誘う人もいる——ただし、唯一の条件は嘉明に「奢る」ことを申し出ないこと。
遺瓏埠で自立できたのは皆のおかげだと、嘉明はよく笑いながら言う。しかし、彼をよく知る者なら誰もが知っている——彼のように謙虚で誠実な少年なら、どこに身を置いても立派な人間になれると。


キャラクターストーリー3
日々の練習が大事だと思う嘉明は、鏢局の仕事がどんなに忙しくとも、毎日必ず稽古の時間を作る。
ご飯を食べているとき、いつも食卓の上では仲間たちと箸で料理を取り合いながらふざけているが、その下ではしっかりと馬歩を構えている。荷物を梱包した後も、嘉明は荷車をほぼ使うことがなく、自分の手でそれらを一つひとつ持ち上げて倉庫との間を往復して腕力を鍛える。
鏢頭は皆の仕事が大変な上に退屈なことを知っているため、時々皆の意見を集めては、娯楽のために鏢局に様々な品を置くようにしていた。
これまでに柔らかな敷布団、ふわふわな枕、七聖召喚のデッキなどが置かれてきた…
だがある時、嘉明が立ち上がって咳払いをした。「コホン!できれば、練習に使える柱を置いてほしいんだ、前庭に。そうすればいつでも稽古できる。それにきちんと基礎を作っておけば、護衛の効率も上がるだろ?」
それを言い終えた途端、皆は口を揃えて不満の声を上げた。仕事が終わってどこで遊ぶか話しているときに、「残業こそが最高の休憩」だと言わんばかりのことを声を大にして言うのは、実に悪質な行為だ。「教訓」を受けるのは免れず、万死に値するだろう!そうして、皆は一斉に飛び掛かった。「叫ぶ」人もいれば、「許しを請う」人や「忠告」するフリをする人もいる…皆が笑いながら騒いでいた。
「みんな、もう勘弁してくれ。出しゃばった真似をして悪かった、許してくれてありがとな。代わりに、みんなに早茶を奢るってのはどうだ?お詫びとしてさ。」
鏢局の仲間同士でこういう茶番を演じるのはよくあることだ。嘉明が柱を設置したいのは獣舞を練習するためだと誰もが知っている。ただ、嘉明に誕生日のサプライズを渡そうと、皆で合わせてふざけただけだ。現に彼らはもうとっくに柱を用意して外に積んでいて、嘉明と一緒に設置するつもりでいた。
時間があると、嘉明はよく仲間たちを獣舞の練習に誘う。「格好いい」という理由で、基本的に全員試しはしたが、最後まで耐えられた者はほとんどいなかった。ある鏢局の仲間がこういう冗談を言ったことがある。
「大変さランキングの三位は鏢師、二位は獣舞をやる人、一位は嘉明だ。だって、あいつは両方をやってるだろ。」
よくよく考えてみると、確かにその通りだ。


キャラクターストーリー4
「よその子」というのは、遺瓏埠の住民たちが嘉明を高く評価して与えたあだ名だ。彼は物分かりがいいため、そう評価されるのも当然だろう。世を渡り歩く中で得た評判は、すべて嘉明の力で勝ち取ったものだ。
しかし、嘉明の成長を見てきた親戚たちだけは知っている——その昔、彼は翹英荘で知らぬ者はいない「やんちゃ坊主」だったことを。
いつも屋根の瓦を外したり、木に登って鳥の巣を漁ったり、大人たちが茶葉を摘んでいるときに畑を荒らしたりしていたのだ。父が近所の人たちに謝罪する光景は、もはや日常茶飯事である。
だが本当は、屋根の瓦を外したのは父のへそくりを隠すためで、鳥の巣を漁ったのは母親の髪飾りの羽根を集めるため、そして茶畑を駆け回っていたのは、害虫を駆除するためであった…
茶目っ気のある嘉明の頭の中には、いつも奇抜なアイデアが詰まっている。それはいつも微笑ましいものであったため、いくら彼がやんちゃをしても、両親の愛情は衰えることなく増していく一方であった。
ある日、遺瓏埠の有名な獣舞隊が翹英荘で舞を披露すると嘉明の父は耳にした。そこで、その当日は従業員への仕事の手配を早々に済ませ、嘉明を連れて最前列で獣王の姿を拝もうと計画を立てた。
だがその日、父は早茶を共にした友人との会話で盛り上がり夢中になってしまう。結局、嘉明に引っ張られて会場に辿り着いた頃には、舞台の下がもう人で埋め尽くされており、獣舞劇を見るのは難しい状況になっていた…
「親父の嘘つき!デカい猊獣を見せてくれるって約束したくせに!」
両親のなだめる声は嘉明の泣き声にかき消され、おもちゃを買ってあげると言ってもその耳に届かない。
「言うことを聞かない子供は猊獣に食べられるぞ!ほら、すごく怖いだろう?」
父はそう言いながら嘉明を肩車した。ちょうどその時、舞台にいた猊獣が高い柱に跳び上がり、こちらを振り向いて嘉明と目を合わせた。
一瞬で泣き止む嘉明。目を見開いて、舞台上の獣舞劇に見入っていた。劇が終わった後の帰り道でも、その視線は舞台のほうに釘付けになっている。その姿を見て、両親はやっと嘉明の異変に気づいた。もしかして、さっきの言葉にショックを受けたのだろうか?
「嘉明、怖がらないでいい。あれは偽物なんだ!中には人が入ってる!子供を食べたりはしない…」
「親父!もっと観たい!オレもあのデカい猊獣みたいになりたい!ガオー!」
昔はどんな遊びも三日で飽きた嘉明だったが、獣舞劇を観てからというもの、彼は一つのことに専念するようになった。獣舞劇に連れて行ってとしょっちゅう父にねだるようになり、目的のない普段のいたずらも、次第に計画的(本人いわく)な獣舞の練習へと変わっていった。
獣頭を蹴って格好よくキャッチする動きを練習するために、家中の竹ざるは嘉明に何個も壊された。
厨房の行方不明になった「しゃもじ」や「おたま」は、考えるまでもなく、嘉明の太鼓の練習に使われたのだろう。そして、その道連れになったのは、家中の桶や椅子だ。
ある日、嘉明が父に連れられて、茶農の新茶を買いに行ったとき——嘉明は竹ざるを渡された途端、その場でそれを掲げて踊りだし、父に「金の猊獣の祝福」を演じて見せた。だが、その拍子に地面に落ちてしまう茶葉。嘉明は父に追い掛け回されることになった。父が息子の耳を引っ張って家に帰ると、料理はもう冷めていた。そして、そんな二人の帰りを玄関ではたきを持ちながら待っていたのが母だ…
季節が移り変わり、父が茶を飲み、母がひまわりの種を食べる傍ら、嘉明は庭で獣頭を掲げて踊る。その様子を父と母は、時に眉をひそめ、時に笑いながら眺めていた…
残念ながら、この平凡でありふれた光景も、今や夢の中でしか見られない。


キャラクターストーリー5
かつて鼻水を垂らしながら獣舞劇に見入っていた子供は、ひと皮むけて立派な少年に成長した。唯一変わっていないのは、少年の獣舞劇に対する情熱だ。彼は今でも璃月港で名を上げることを夢見ている。しかし遺瓏埠と違って、沈玉の谷を発祥の地とする民俗の獣舞劇は、璃月港で受けはよくとも稼ぎがよくなく、璃月劇のように人々の心に深く根付いていない。
父は嘉明の止まることを知らない勢いを見て、息子の将来を心配した。父は何度も嘉明に「起業は難しい」と言ってきたが、嘉明は「家業を守るほうがもっと難しい」と言って、父の茶葉の商売を継ぐことを断った。母がいた頃は、父と子がいくら揉めても食卓を囲めば和解できた。だが、そんな母は病気で亡くなった。それからというもの、二人の関係は接着剤がなくなったかのように、徐々に離れていってしまった。
父は母の病気を、若い頃に自分の起業に付き合わせて苦労させすぎたせいだと考え、自分を責め続けた。たった一人の息子にもしものことがあったら、愛する亡き妻に合わせる顔がない。嘉明が獣舞の練習でまた怪我をしたのを見て、ついに父の堪忍袋の緒が切れた。父は嘉明の獣舞の道具を——母が作った獣頭以外——すべて他人にあげてしまったのだ。その次の日、嘉明は一言も言わず、獣頭を持って家を出ていってしまった。
息子が家を出た後、父の胸には怒りだけでなく、動揺や反省もいくらか含まれていた。複雑な心境であったのは間違いない。ここ数年、父は密かに和記庁で働いている知り合いに息子のことを気にかけるよう頼んでいた。だが、息子のことを話すときはいつもキツいことばかり言い、和解しようとしなかった。
手伝いの小梁は佳節の日になると、他愛のない話を綴った手紙を嘉明に送った。十中八九、父の差し金だろう。嘉明も馬鹿正直にそれを指摘することなく、そうと分かりながら小梁の話に合わせて返事をし、それとなく家の状況を聞いた…
嘉明にとって、小梁の手紙を開封するのは、まるで爆弾を解除するかのように緊張するものだ。時に、彼からの手紙を受け取りたくないと思うことすらある。子供の頃、一番怖かったことは「父がゲンコツをお見舞いしにこっちに向かってる」だったが、今一番怖いのは「父が家で倒れた」と言われることだ…今も昔も、便りのないのは良い便りと言ったものだ。
とにかく、父と子は膠着状態にあり、時間が経てば相手が自分を理解してくれると互いに思っているようであった…幸い、後悔するような事態が起きる前に、親切で有名な閑雲が辛抱できずに裏で手を回してくれた。皆の協力の下、父は初めて心を落ち着けて、嘉明の華麗な獣舞劇を真剣に見た。最初、父と子の間には気まずい空気が流れたが、徐々に言葉を交わし、そして最終的に互いの心を打ち明けるようになった。父はようやく、嘉明が獣舞劇を生業にすることを受け入れた。
「今度オレが璃月港で獣舞劇をやるときは、絶対見に来てくれよ、親父!」
「言われなくても見に行く。」
「早茶の時に話し込んで遅れないようにな。オレが人気になって、入れず後悔して泣くなよ…」
「まったく、お前というやつは!」


「我が子、嘉明へ」
嘉明は読書家ではないが、枕の下にいつも一冊の本を置いており、その中には母からの唯一の手紙が挟まっている。
「…母ちゃんが一番心配なのは、あたしがいなくなった後、あんたと父ちゃんが毎日喧嘩することなんだ。頭に血が上ると体に響く。父ちゃんは口ではきついことばかり言うけど、とても優しいんだよ、実は。父ちゃんのことを責めないであげて。この先、あんたが一人で頑張らなくて済むよう、苦労を減らしてあげたいだけなんだから。覚えてる?あんたが足をくじいたとき、父ちゃんはすごく焦りながらあんたを負ぶって医者に行ったよね。あの夜、心配で布団の中で泣いちゃってたのよ、父ちゃん…。あんたはもう大人だし、色々と譲ってあげて。喧嘩はできるだけしないようにね…」
「…獣舞をやることを母ちゃんは反対しないから、安心してちょうだい。むしろ、小さい頃にもう自分の好きなやりたいことを見つけて、母ちゃんは嬉しく思ってたんだ。でも約束して、健康に気をつけて、無理して体を壊さないようにね!それと火邪を起こす食べ物とか、生ものは控えるように、好き嫌いもダメだから…雨や風の強い日なんかにはちゃんと着込んで、無理に格好つけるんじゃないよ…」
「世間を渡り歩くのに大事なのは、良心に恥じないようにすること。一番いけないのはできない約束をすることよ…」
「…友達をたくさん作るのは悪いことじゃない。気が合う友達ができたら、その人のことを大切になさい。知己は求め難し、一人でもいればとてもありがたいことだから。つらいことがあっても、あんたは父ちゃんに絶対言わないって知ってる。だから、そういう時は友達に相談するの。何でもかんでも心にしまわないで。思い込みはなおさらいけないことよ。分かった?」
「母ちゃんは疲れたから先に休むね…母ちゃんのことを恨まないでちょうだい。いつも『悪い子ね、あんたを産むより叉焼を産んだほうがよかった』って言ってたけど…あんたは悪い子なんかじゃない。叉焼なんかよりずっといい…嘉明はいつまでも、母ちゃんの一番大切で、一番愛しい子よ…」
折り目の感じからして、この手紙は何度も開いては畳まれたようだ。本に挟んで保存するのは、確かに賢い方法だろう。
手紙を挟むのに使っているこの本を、かつて母は湯呑の下敷きに使っていた。そして嘉明に受け継がれた後、その本は新たな使い道を持つようになった。
「本をたくさん読めって言ってたくせに、この本を読んだことあるのかよ?おっと、いけない!今のはナシだ。おふくろが夢枕に立って、オレのことをしばきそうで怖いからな!」
人前で母親のことを口にするとき、嘉明は一度も涙を見せたことがない。明るく生きてほしいと母が望んでいたことを、彼は知っているからだ。そして、彼にはその生き方ができた。
ただ、なぜか一人でいるとき、母のことを思い出すと目に砂が入るようなことがよくある、たとえ風や塵のない寝室にいてもだ。


神の目
嘉明の心の中にはずっとこんな疑問があった——「猊獣って、一体どんな姿をしてるんだ?」…先輩たちも本物の猊獣は見たことがないという。獣舞劇も、すべて師匠たちから教わったものだ。どうにかして調べるにしても、きっと大変な労力が必要になる。
しかし偶然、嘉明は行秋からいくつか山隠れの猊獣のことが記された古書を手に入れた。それから数夜の奮闘を経るのだが、やはり蟻のように小っちゃく並んだ馴染みのない言葉に嘉明は屈してしまった。記憶に残ったのは、「猛々しい」「迫力ある」「手強い」といったいくつかの単語のみだ。
聞くからに、堂々として勇ましい巨獣であるのは間違いない!もし自分の目でそれを見ることができたなら、獣舞劇のパフォーマンスにもきっと大いに役立つだろう。そんな想いを胸に抱きながら、嘉明は古書の中によく登場した場所を巡った。霊濛山の近くに来たとき、どうにも妙な気迫に圧されるような感覚を覚えた。まるで物陰から自分をじっと見つめる両眼がどこかにあるかのようだ。ここに違いない、まさにこれがそうなんだ!嘉明は直感でそう思った。
翌日、まだ空が明るくなる前に嘉明は支度を整えて、最もお気に入りの獣頭とお供えの食べ物を入れた大きな袋を持って、霊濛山に踏み入った。すると突如、強い風が吹く。嘉明が反応するよりも早く、黒い影がその周りをぐるりと何度か回った。嘉明はすぐにぎゅっと目を閉じて両手を合わせ、敬意を込めながら大声でここに来た理由を告げた。
「猊獣様、こんにちは!オレは嘉明!猊獣様のお姿を拝見したくてここに来たんだ…お供え物をするために、美味しいもんもたくさん持ってきた!問題なければ、目を開けるぞ?」
辺りから物音がないのを確かめた後、嘉明はゆっくりと目を開けた。視界に映り込んだのは、まさしく大きな——いや、想像していた勇ましい姿とは異なる小さくて可愛い猊獣が、驕り高ぶった様子で巨石の上に座っていた。
「わあっ!こんなに小さくて、可愛いのかよ?こんにちは、猊獣ちゃん。ほらほら、頭を撫でさせ——」
あまりに興奮する嘉明に、猊獣は機嫌を損ねたようだ。身体は小さくとも、尋常ならざる気迫がある。電光石火のごとく周囲を跳び回る猊獣と、それに目を回してしまう嘉明。そして、持ち物が地面に散らばってしまった。しかし嘉明もすぐ獣頭を被って、無意識のうちに対抗していた。猊獣が見せた動きをそのまま真似て、人間一人と猊獣一匹、久しぶりに会えた友と一日中愉快に遊び回るかのように、日が暮れるまで互いにじゃれ合った。最後には、猊獣も嘉明を認めたのか嬉しそうに頭を振り回し、キラキラと光る石を体毛の中から一つ落とした。
「うわっ!?マジかよ!今日、他にもいいことがあるなんて!?『神の目』をくれんのか?」
嘉明が注意深くその石に近づくと気がついた、それが正真正銘——ただの鉱石であり、夕日に照らされて光っていただけだったことに。
「ハハッ、ちょっと早とちりしちまったな。」残念な気持ちも少しあるが、嘉明は相変わらず上機嫌だった。なぜなら、その日から「威水獣舞隊」が正式に発足したからだ。
それ以来、嘉明とウェンツァイは互いに離れたことがない。そして、神の目のことも次第に忘れていった…
ある日、嘉明が商人たちを護送していると、悪名高い盗賊に遭遇した。同行する商人たちは、荷物を捨てて命を優先しようと言い、嘉明にすぐさま逃げようと提案した。
「オレはな、こうやって盗みや略奪に頼って暮らしてるやつが大っ嫌いなんだ!相手がただ通りかかっただけだとしても、オレは決してやつらを見逃さない!それにオレは鏢師だ、なおさらだろ。みんなは先に行っててくれ。ここはオレがどうにかする。荷物は一つたりとも失くしはしない、髪の毛一本たりとも触れさせやしないさ!」
そうして、たった一人で十人もの相手に立ち向かった。最終的に傷だらけになりはしたものの、強盗たちを縛り、なんとかして千岩軍と鏢局の仲間たちのもとへと届けた後、安堵したのかそのまま倒れ込んだ。
その後、商人たちが荷物を点検すると、本当に一つも失くなっていないことに気がついた。しかも、リストには載っていなかった「神の目」まで一つある。
商人たちはその神の目を慎重に包み、嘉明への感謝状と共に剣鞘鏢局に送り届けた。
神の目を見た瞬間、嘉明は目をぱちくりさせ、喜びではなく驚きで頭がいっぱいになり、たくさんの疑問が湧き上がった。
「いや、そんなわけない…!?本当にオレのなのか?ちょっと護送しただけだってのに。オレは大したことしてないし、普段通り働いただけだ…」
「返すか?いや、でも返すって誰に…?商人にか?けど、商人たちも自分のじゃないって言ってた…もしかしたら、あの盗賊のもの?」
「はぁ!縁起でもない!何を考えてんだ、オレは!この状況からして…この神の目は、確かにオレのもの…なんだよな?」
「いや!神の目は何かしらの強い願いに関係があるって聞いた。けど、ウェンツァイの前で獣舞を披露したときには何もなかったし、護送をしてもらえたってことは…まさか、オレの天職は獣舞じゃなくて鏢師だったってことか!?」
「もしかして、獣舞を諦めろってことじゃないよな!?だったら、こんな神の目いらないぞ!」
感謝状を覆う布を取るまで、嘉明はそう思っていた——
六方に目を配り、八方に耳を澄ます彼は、まさしく瑞獣のように飛耳長目。
悪党や強盗を成敗する彼は、まさしく猊獣のように邪気を払い、吉瑞をもたらす。
嘉明の疑問はこうしてついに晴れる。服の裾でささっと手を綺麗にしてから、慎重にその神の目を受け取った。

甘雨

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キャラクター詳細
璃月、ここに住む人々の多くは「玉京台」の生活に憧れを抱くが、その規則を知る者はほとんどいない。
人々は「璃月七星」が才能に溢れた集団であり、璃月の命綱を握っていることを知っているが、全ての決断がどのようにして決定されているのかを容易には理解できない。
人々は新しい年に公布される条例が市場を大きく動かすことを知っているが、それがどのようにして繁雑な議事録の中から抜き出され、理解しやすい言葉に書き換えられているのか知らない。
甘雨は「月海亭」の秘書であり、世の人々の目に映らない仕事をいくつも担当している。
人々は甘雨の地位を知っているが、それでも「月海亭」の秘書と、夜明けに埠頭で黙々と朝食を楽しむ彼女を結びつけるのは困難であった。
朝日が昇りきる前に、彼女は再び玉京台にある月海亭へと戻り、引き続き「契約」を完遂する為に働く。
――そう、それは三千年前に彼女と「岩王帝君」が結んだ契約なのだ。


キャラクターストーリー1
甘雨は、七星のうち誰か一人の「専属秘書」というわけではなく、「璃月七星」全体の秘書である。
その温厚な見た目とは裏腹に、その内には盤石な意思が秘められている。
このことを、仙人たちを率いる岩王帝君はとうに見抜いていた。
遥か昔、「璃月七星」が初めて璃月に現れたとき、甘雨は初代七星の秘書を務めることになった。
それから璃月七星は幾度となく世代交代を繰り返すも、そのそばにはいつも甘雨がいた。
それはその長い年月の間、璃月各所の膨大な書類の処理を全て甘雨が担ってきたことを意味する。
彼女は仕事量が七倍、百倍、千倍になったとしても、微塵も責任感を減らすことなく、あの最初の日から変わらずに働いてきた。
かつて、何が甘雨をそうまでして突き動かすのか理由を探ろうとした者がいたが、その答えは明らかになることがなかったそうだ。
「私がしたことは、帝君の功績と比べたら…足元にも及びません」


キャラクターストーリー2
「私の仕事は、璃月に存在する数多の命に、最大の幸福を与えることです」
ほとんどの状況下において、甘雨は信頼に値する秘書である。
膨大ともいえるその仕事の数々を、彼女以上に上手く処理するものはいないだろう。さらに、彼女は璃月のあらゆる物事に対して、独特で鋭い視点を持ち合わせている。
ただ、甘雨が頼りになるのは「ほとんどの状況下」でのことであり、一部はそうではない。
肝心な場面であればあるほど、少しの失敗も許されないと力み、彼女は余計な緊張をしてしまうのだ。そして、その緊張のせいで失敗を犯す。
例えば、璃月の1年の中で最も重要な儀式のひとつである「七星迎仙儀式」でのことだ。
甘雨はある年の「七星迎仙儀式」に3分遅刻し、群衆が見つめる中、人混みをかき分けてやっと儀式の場に到着したことがあった。
その後、甘雨は顔を赤面させながら口ごもり、言い訳もせず、ただ心の中で「岩王帝君」に何千回と謝罪した。
仲のいい同僚は、この失態には何か裏があると考えた。
顔見知り程度の同僚たちは、帝君が特に気にしていないのを見て、それに倣うことにした。
プライベートでも付き合いのあるものは彼女を心配し、仕事量を調整するか、短期の休暇を取得するよう勧めたが甘雨は首を横に振った。
「今年の式典に来ていく衣装の飾りをどれにすべきか悩んでいたら、2時間も経っていました…」
ーーこのような理由を、甘雨は絶対に誰にも言わないだろう。


キャラクターストーリー3
千年はどれくらい長いのか?
それは荻花洲に咲き誇っていた琉璃百合が洪水により絶滅するほど長く、賑やかだった帰離原が戦後寂れて廃墟と化すほど長い。
千年はどれくらい短いのか?
甘雨にとって、それは瞬く間のこと。
凡人では想像もできない長い年月の中、甘雨は玉京台に座り続け、あらゆる書類を処理してきた。
全ての楼門の建設を記録し、すべての産業の繁栄を目にした。
甘雨は時間の流れを客観的に捉えていた。時間は白紙の上で絶え間なく更新される膨大な数字であり、あらゆる色を使って区分される必要のあるテーブルであると。
時間は、甘雨の心を変えることができなかった。彼女はずっと、「人」と「仙獣」の間で揺れ動いている。
麒麟である彼女には、人間の世界で起こるたくさんの争いを理解できない。
一方、その身に流れる人の血が彼女に、人間社会に融け込む希望を囁くのだ。


キャラクターストーリー4
ひとたび仕事から離れると、甘雨は普段とは違う一面を見せる。
彼女には昼寝の習慣があり、まるで体内に寸分の狂いもない時計が埋め込まれているかのように、時間になると場所や状況に関係なく、体を丸めてすぐに眠ってしまうのだ。例えヒルチャールが彼女を囲みながら騒がしく踊っていても、彼女が目を覚ます事はない。
この習慣は最初「璃月七星」の身内同士の笑い話でしかなかった。
だが、ある日「天璇星」に同伴し昼食を外で済ませた後、満腹になった甘雨が道端に積まれた干し草の上で眠ってしまったことがあった。そして、そのまま荻花洲へと運ばれてしまい、荷下ろしの時に頭を地面にぶつけてようやく目を覚ましたという。
元の場所へ戻るまでの3時間、「天璇星」は甘雨が何も告げずに姿を消すやつではないと重々理解していたため、危うく失踪届けを出してしまう寸前だったそうだ。
その後、「今後、昼寝は安全な場所で行うこと」という訓戒を受けた甘雨は、落ち込みながらこう口にした。
「璃月は…どこも安全な場所ではないのですか」と。
甘雨の世間に対する認識が多くの人とズレているのは、彼女の中に仙獣の血が流れているからなのかもしれない。


キャラクターストーリー5
甘雨に仙獣「麒麟」の血が流れていることは、璃月港であまり知られていない。
緋雲の丘を通る時、彼女を初めて見る者は毎回、その長い髪から伸びている物について聞く。それに対し、彼女はいつも家に伝わる髪飾りだと誤魔化すのである。
「もし、みんなに本当のことを知られてしまったら、もっと距離を取られてしまいます…」
今まで、一度も璃月の民と親しくなったことなどないが、甘雨にとって心の距離を置かれることは悲しいことなのだ。
また、それとは別にもう一つ重要な理由がある。これが「麒麟の角」であることを正直に話してしまえば、好奇心から角を触る人が現れるかもしれないからだ。
ーー心理的や生理的に関わらず、角にも感覚があるのだ。
また他にも、甘雨が用心深く隠してる秘密がある、それが「体型の維持」だ。
麒麟は菜食主義者だが、璃月の料理はその名を天下に轟かせるほど美味であり、たとえ野菜料理であっても食欲を抑えるのは難しい。
そのため、町での生活に慣れた甘雨は、己の体型と体重を常に気にするようになった。
気づけば美味しいものに吸い寄せられていたなんてこともしばし*あり、食欲をコントロールすることはドラゴンスパインで烈焔花を見つけるのに等しいくらい困難であると彼女は考えている。
だが、たとえ困難なことであっても、甘雨は努力を怠ったりしない。
彼女は数千年前の魔神戦争中、毬のように丸々と太っており、その体型ゆえに巨獣の喉を詰まらせたことがあった。息の出来なくなった巨獣はいとも容易く降伏したという。
その恥ずべき過去を繰り返さぬよう、甘雨は何がなんでも体型を維持すると心に強く誓っているのである。


玉京台植物誌
玉京台でよく見られる植物の特徴や習性を記した手記、その秀麗な字は甘雨の手書きによるものである。
手記は明確に部類分けされており、内容は簡潔かつ的確で、小難しい内容は分かりやすく要約までされている。例えば、琉璃百合の保護の要点や霓裳花の移植についてなどだ。
読み物としても専門書としても、正式に出版しても良いレベルのものである。
ーー以上が、最初のページをいくつかめくった時の感想だ。
ページを後ろからめくった時、その内容に驚かされることだろう。
手記の後ろの数ページは、その大部分が黒く塗りつぶされているのだ。
じっと目を凝らすことで、そこに各種野菜の育て方が記されていることを辛うじて判別できる。
「自分で野菜を育てられるようになると、食欲をコントロールするのがもっと難しくなります」
甘雨は拳を強く握りしめながら己の欲望を抑え、苦労してまとめ上げた成果を全てなかったことにしたのである。
ある日の事、お腹を空かせた甘雨が花の水やりをしようとした時、霓裳花へと頭から突っ込んでしまった。その時、もしこれがスイートフラワーだったらと妄想することで、自分の食欲を紛らわせたという。
そして、そのまま昼寝の時間になり、彼女は山積みのスイートフラワーに包まれる夢を見るのであった。


神の目
麒麟は仙獣の中の仁獣であり、露を飲み、稲を食す。
生きた虫を踏まず、生きた草を折らず、群れず、旅をせず、罠に入らず、穏やかで寛大で、温厚で優雅な一族だ。
過去に海の中で巨獣が暴れまわり、足元の大地が脅かされた時、平穏という言葉は日常の中から消え去った。
三千年前、甘雨は岩神モラクスの召喚に応え、魔神戦争において彼に助力した。
戦争が終結すると、彼女は璃月に残り、人々がより完璧な国を作り上げるための手伝いを始めた。
初代の璃月七星が補佐を必要とした時、彼女はこの任を引き受けて七星の秘書となる。
そして彼女がこの決断を下した瞬間、腰元に「神の目」が現れたそうだ。それは彼女に卓越した肉体と、世界と共鳴する力を与えた。
その時、甘雨の心は平和と安堵に満たされていた。
どんなに強くなろうとも、「神の目」を使うことはないだろう。これは璃月を守る最後の手段である。
仙獣と人間の混血として、彼女は二つの種族の架け橋となることを選択した。そして「神の目」は、その新しい責任への証人である。

閑雲

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キャラクター詳細
『清斎広録三家集注』なる典籍によれば、仙人は旅をする時、「八の清らかな霞気」を伴い、「光に乗り、雷を追う」ように空を舞うという。寿命は非常に長く、凡人にとっての数百年や数千年は、仙人からすれば仙府での一休みにすぎず、「閬風に昼夜あらず」とも書かれている。
さらに、この清斎広録には仙人の住処に関する記載もあり、仙人は天を枕に、地を布団にし、山河湖海のあらゆる場所を住処にするとされている。だからこそ、璃月の史書には仙人との邂逅に関する話が数多く登場するのであろう。以上が、仙人にまつわる一説である。
さて、金石典籍『歩虚石譜』においては別の説が展開されている。石譜は、絶雲の間の奇石を高く評価するとともに、さりげなく警告の文を記載している。「絶雲の諸峰、百丈の背丈を各々競って天へと伸ばす。各山に主あり。慶雲頂は削月築陽真君、琥牢山は理水畳山真君、奥蔵山は留雲借風真君。君子主ある山を登らず、亦た主ある石に手をつけず。」
世に伝わる書物に仙人の容姿に関する記載が少ないのは、こうした畏敬の念ゆえなのであろう。歴史学者子萇の著書『石書集録』および古の歌謡におけるわずかな描写から、仙人の姿はまさに千変万化であることが垣間見える。留雲借風真君を例にとれば、人の姿のときは「容姿端麗にして、紅の絹を身にまとい、化粧を施している」という。一方、鳥獣の姿のときは「力強く空を羽ばたくその翼は雲を掻き分け、その鳴き声は月にも届く」とされる。
清斎広録には興味深い逸話が収録されているが、仙人の超然とした気質をよく現している——昔、絶雲の間で留雲借風真君と出会った一人の旅人が、自作のからくり水時計「玉瓶浮溢」を仙人に見せながら得意げに語り始めた。しかし、仙人は浮溢で時を測る際の欠点をたったの一言で言い当てたのだ。その後、旅人は仙人に教えを乞い、手解きを受けた。そしてやがて、仙人に見送られて山を下りていった…
「世を逍遥し尽くし、万物は我が手中にありと、傲慢の心あり。仙人にまみえ、初めて衆生の小さきを知る」とはよく言ったものである。


キャラクターストーリー1
璃月港には絶えず大勢の人々が出入りしている。裕福な璃月の大商人、変わった身なりの異郷人、高級官僚、そして親切な鏢師など…性格も職業も様々な人々が行き交うこの街には、どんな者が現れようとも不審に思われることはない。
たとえ見覚えのない者が突然街に一人増えたとしても、住民たちは特に何の反応も見せないのである。
ある日、璃月港に突然やってきたとある女は、「閑雲」と名乗った。それはすらりと背が高い、なんとも気品のある女で、赤い縁をした眼鏡をかけている。
璃月にマシナリーを売りに来ているフォンテーヌの商人たちは、彼女をたまに見かける。彼女は屋台の前を通りかかると、足を止めるのだ。そして、仕掛けの設計をめぐって商人たちと議論を交わすうちに、日が暮れていることもある。万民堂の卯師匠と香菱は、彼女と顔馴染みらしい。彼女はしょっちゅう店を訪れては、グゥオパァーと一緒に卓につき、熱々の龍髭麺を待っている。新月軒と琉璃亭の従業員も、彼女を知っている。たまに往生堂の鍾離先生の客人として、一緒に来店することがあるからだ。おもちゃ屋の店主・山ばあやは彼女を覚えている。よく白い長髪の若い女を連れて、おもちゃを見に来ていた。申鶴と呼ばれる連れの女は、しばらく品を眺めてはいたが、特に気に入ったものが見つからなかった様子だった。それでも閑雲は、時々彼女をおもちゃ屋に連れてきていた。
ちょっとした趣味があり、広く人々と付き合い、友人も多い——璃月港のほとんどの住民と、彼女はさして変わらないようである。
だから、彼女が玉京台近くの池のほとりでピンばあやと語り合っていても、その姿に何ら違和感はない。
「近頃、理水にはあまり会っておらぬな…削月のやつは、前に貸してやった『多用途洞天掃除呪符』をまだ返さぬのだ。」
「おや?新しく作ったと言っていた、呪符型からくりかい?」
「その通りだ。ふむ、説明しよう…」
また、璃月港の家々から灯りが消え、街がしばしの静寂の中で、再び目を覚ますまでの時間を持て余した頃…時に、閑雲は小径を辿って天衡山へ向かう。
岩だらけの険しい道も、閑雲にかかれば造作もない。両足で軽く地面を衝けば、たちまち足元には風が吹き起こり、瞬く間に山頂へと辿り着く。
朧気に見える遠くの街の景色を見降ろしながら、「閑雲」から鶴の姿となった彼女は、翼を広げて空高く飛び上がる。
なにせ、森羅万象を抱く璃月港なのだ——仙人が幾人か住んでいたとしても、何ら不思議ではないだろう。


キャラクターストーリー2
璃月の歴史の一部は歳月とともに失われ、一部は古代遺跡の形で大地に遺され、そのまた一部は仙縁ある璃月人によって、史籍に記録されている。璃月史に興味があるならば、璃月の隅々を探訪するだけでなく、史料の精読にも励むべきである。その過程において、蔵書家は重要な役割を果たす。璃月港には「東明居士」を自号する博識な学者がいるが、これはまさにそうした蔵書家の一人である。
東明居士は往生堂の客卿・鍾離と親交があり、よく彼に古書の真贋鑑定を依頼している。ある時、鍾離が所用で向かえず、代わりに友人に鑑定を頼んだことがあった。
赤縁の眼鏡をかけ、すらりと背が高いその友人は「閑雲」と名乗った。東明居士は、鍾離と同じく、風雅の道に心を寄せる文人が来るものと想像していた。ところがどっこい、部屋に入ってきた彼女は目の前に広がる古書には目もくれず、扉の古いからくり錠前ばかりに視線を投げかけているではないか。東明居士は緊張し始めた。彼がどこから話を切り出せばよいかわからず途方に暮れていると、沈黙の中に漂う気まずさを察知したかのように、閑雲が口を開いた。「視力は古書を鑑定するのに何ら問題ないぞ」——東明居士をなだめるような口調で、彼女は眼鏡について語り始めた。
「視力が悪いわけではないのだ。眼鏡に頼らずとも、よく見えている。眼鏡というのは、視力を補う道具というだけでなく、装飾品としての一面も持つ。その観点からみれば、眼鏡の縁の色とて、ありふれた定番の色に限る必要はなかろう?赤という選択肢も十分あり得るのだ…」
「変わったお方だな」東明居士は思った。
「それに、眼鏡を掛けていれば、より親しみやすく感じてもらえるだろう。人間らしさも増す…」。それを聞いた東明居士の顔が、一気に青ざめた。
「璃月港の人間にとって、より馴染みのある格好になるという意味だ。私は元々、ここいらの者ではないのでな…」
なるほど、そういうことだったのか。東明居士も地元の出身ではなかったため、話を聞いて随分女に親しみが湧いた。そして彼は、鑑定依頼をする予定だった古書へと話を運んだ。
しばらくページをめくったあと、閑雲は眉をひそめた。「『その屈強さは牛のごとく…尻尾に翼あり』…北の浮錦がそのような姿で人の前に現れるわけがない。それに、理水畳山についても…出鱈目だらけだ。」
古書の真贋を判別する方法の一つに、記述内容の検証がある。専門家が記述に誤りがあると言うならば、高値で買い取った古書も偽物である可能性が高い。古書の収集は大変な苦労と金銭を要する作業なのだ。時に、ひもじさを我慢しなければならない時さえある。東明居士は苦笑した。両親と妻を亡くし、苦難多き人生を過ごしてきた彼にとって、書籍に浸る時こそが世の苦しみから逃れる唯一の方法だった。
万感の思いが込み上げてきて、東明居士は嘆いた。「凡人の一生は苦難に満ちている。仙人のように悠々自在に逍遥することなど、夢のまた夢…私が仙縁を得ることは生涯かなわないのだろう」
閑雲は眼鏡越しに、やせ細った蔵書家をしばらく見つめ、やがて口を開いた。「かねてより、仙道を求めるには、天に上り、地に潜ることも厭わず、苦労に苦労を重ねねばならぬ…そうしてようやく、道を論ずる縁を授かるのだと言われておる。仙人になるまでの苦難は、人の苦しみに劣らぬぞ」
「おっしゃる通りです。つい、つまらぬ愚痴をこぼしてしまいました」
挨拶を交わし、東明居士に見送られながら書斎から出る際、閑雲はふと何か思い出したように告げた。「書籍は本物ではなかったが…扉の古い錠前を外して、骨董品屋に持っていくといい。書籍の購入額程度の値打ちはあるだろう」
「それから仙縁のことだが——お前は確かにそれを得ている故、長い目で未来を見据え、英気を養っておくがいい」


キャラクターストーリー3
歴史学者の間で主流となっている見解は、以下のようなものである。「太古より物あり。天地の上下八方に極尽あり、宇宙の四方に伸ぶ川に始終あり。六合の間に、仙人は神の誕生を待たずして生まれ、陰陽に頼らずして形を成し、草木を潤わせ、金石に融ける。此れ即ち自然と言うべし。其の始まりを知らず、終わり料り難し。」分かりやすく言えば、天地には境界があるが、神の造物でない仙人にはそれがない…ということだ。
璃月という言葉がまだ存在しなかった昔、仙人たちはすでに山野を往来していた。世を守り、人を救うことを己の責務とする者もいれば、人を害する者もいた。清斎広録には、この時期に関する記録が一部ではあるが残されている。
「旱魃猛威を振るい、赤野焼ゆるが如し。人心燻る中、誰をか恃まん。瘴気災いと化し、疫病蔓延す。人心焼焦せし中、誰か我を救ふ者あらん」
「仙人来りし時、雲留まり、風立ちぬ。厚き雲、多き雨を下す。旱疫悉く逐はれ、万民悉く救はるる。」
のちに「留雲借風真君」と尊敬を込めて呼ばれるようになったこの仙人は、干ばつを鎮め、危機から民を救った。当時、その恩恵にあずかった民が、感謝の意を込めてこのような記録を残したのである。
その後、魔神戦争が勃発した。人々を憐れんだ契約の神・モラクスは、留雲借風真君をはじめとする諸仙人と志を共にした。仙人たちは命に従って四方へ征戦した末に、ついに天下を平定し、世に再び晴天が訪れた。
英雄と仙人が活躍したその時代は、感慨深い想いとともに後世に語り継がれた。歴史に刻まれた仙人たちの雄姿は、無数の伝説となって璃月人が成長する過程で親しまれるようになった。しかし、人が仙人について語っていても——特に、彼女自身に関する部分を語る時——閑雲は殆ど何の感情も表に出さない。
かつて奏楽が響き渡っていた絶雲の間は次第にもの寂しさに包まれる地となり、かつて共に笑っていた友人たちは、幾人も戦争で逝ってしまった。それを思うたび、閑雲は虚しくなるのだ。旧友たちは世を守るために進んで身を戦地へ投じた。しかし友がいなくなっても尚、この無念が消えることはない。
とはいえ、誓いは必ず守る…皆、かつてそう岩王帝君と約束した。その契約にこそ、皆の信念と願いが刻まれているのだ。誓いを破り去ろうなどという考えが、閑雲の中に浮かんだことは一度たりともない。なにせ彼女は、仲間との友情を何よりも大事に思っているのだから。皆の願いを見守るためにも、絶対に璃月を見捨てることはしない。
悲しみと決意は心に渦巻き、様々な想いが胸に押し寄せては、次第に静まっていく。人の語る伝説に静かに耳を傾けていた閑雲は、最後に一言だけ口にした。
「ふむ、実にいい話だ。」


キャラクターストーリー4
知音が散り行く前、時折仙人たちは一堂に会して共に音を奏で、絶雲の間にその音色を響き渡らせていた。
歌塵浪市真君は音楽に精通し、琴を奏でるのが得意で、塵の神・帰終は作曲が得意だった。
夜叉の伐難と応達はよく留雲借風真君と一緒に、歌塵浪市真君の琴音に合わせて歌を歌った。興が乗れば、留雲借風真君は様々な姿に変化し、風に乗って軽やかに舞った。
このような光景が繰り広げられるたび、山や水に棲む生き物たちは顔を上げ、耳を立て、静かに仙音に聞き入った。他の仙人たちも足を止めて、音に耳を傾けたものだった。
しかし、今や静まり返った絶雲の間では、風の音と鳥の鳴き声しか聞こえなくなった。
たまに奥蔵山にある仙府の奥深くから、留雲借風真君が弟子と会話を交わす声が聞こえてくるのみ…
憐れみの心から受け入れた数多くの弟子の中には、その哀れな生い立ちに心が痛む者もいたが、数年間の敬虔な修行を経て、その悲しみや辛さに満ちた雰囲気はすでに消え去った。霜に覆われた梅の枝が、雪が溶けた後に、より一層強い姿を現すように。
そんな弟子たちを見守っていると、かつての友人たちの願いに込められた美しきものが弟子たちに引き継がれていることを感じて、閑雲は微笑ましい気分になる。
だからこそ、「我があの子たちを守ってやらねば」と思う。時に思いが行き過ぎて、かえって弟子たちを戸惑わせることもあるが、閑雲は大して気にしていない。
友人を亡くし、みながバラバラになってしまったことも、大地が血に染まるような壮絶な経験をしたこともない弟子たちに、真君が大切に想うすべてをはかれるはずがない。皆が無事で、元気でいてくれるなら…それだけで満足なのだ。


キャラクターストーリー5
玄妙なる天道は捉えにくく、仙人たちの修行法もそれぞれ異なる。
留雲借風真君のそれは、「格致」を経て己の外に存在する道を求め、それを己の内に修めるというものである。そうして、外に頼って己を磨き、外なる理と内なる心を一つにするのだ。「格致」とは即ち、森羅万象に秘められた「天地の道」を窮めただすことである。世の万物には、意識の有無に関わらず、道理というものが存在している。その道理を研究し学ぶことは、万物が従っている道について理解することであり、これこそが修行の正道なのである。
真君は千年にも及ぶ熱心な研究の末に、大いなる気づきを得て常人の届かぬ境地に至った。しかしながら、凡人の命の短さ故に、道理の真髄をすべて弟子に授けられないのは実に残念なことである。そればかりか、資質に欠ける者はたとえ彼女の導きを受けたとしても、悟りを開くことができないのだ。
知恵を絞って考えた結果、彼女はある方法を思いついた。
凡人が天道を悟ることが至難の業ならば、その道理を仕掛けの術に溶け込ませて、人々に伝えてやればよいのだ。
難解極まりない「天地の理」も、細かく分けて少しずつ世に伝えれば、人間がより理解しやすいものにできるだろう。
それに、仕掛けの術で生産が捗れば、労力と物資の消費を大幅に抑えられ、その恩恵は計り知れないものになるはずだ。
からくり装置で洗濯ができれば、「夜闌にして臥して衣を濯ぐを聴く」ことはなくなる。
人を乗せて走る装置があれば、杖や草鞋を拠り所にして何千里も歩く必要もなくなる。
なにせ、平和なこの時代だ。彼女が雨を降らせねばならないような干ばつはなく、人々もすでに田畑に水を引く術を得ている。そして、戦火もほとんど消えた。みなの心に安らぎが訪れた今、人々が望んでいるものは、より豊かな生活だろう。
この時代、契約の通りに俗世を守る方法は、殺生と魔物退治だけではあるまい——装置を作って、人々の暮らしに利便性をもたらすこともいい方法と言えるだろう。
凡人が限りある生涯のうちに、天地の理を悟り、世のためとなる功績を残すというのは至難の業だ。しかし、彼女が手を貸せば、「桃源郷」を築くことも夢ではないかもしれない。
かつて絶雲の間に響いていた音色を再現することはできないが、街の家々から聞こえる笑い声を守ることならできる。それは彼女の、心からの願いでもある。
それに、仕掛けの術は留雲にとって大いに興味をそそられるものだ。こよなく美食を愛する彼女も、新しい仕掛けの術の研究となれば寝食を忘れるほどなのだから。
斯くして、「留雲借風真君は仕掛けの術の研究を好む…というよりも、我を忘れるほどのめり込んでいると言うべきだろう」——これはいつしか、弟子の誰もが知る公然たる事実になったのである。


玉虚
伝説の中で、仙人の住処は「玉虚」と呼ばれている。絶雲の間の各山にある仙府は、まさにこれである。
しかし「玉虚」は元々、俗世を俯瞰する慶雲頂の雲上を指す言葉であった。ほとんどの凡人はお目にかかれない場所である。
また、「玉」は仙府の土台となる、無欠なる浮生の石を指していた。これがあるからこそ、かの地は雲の上に浮いていられるのだ。
「道は虚にあり、登虚すれば即ち道を得る」。かつて仙道を求める者は天に登り、地に潜って修行を行わねばならなかったが、ここはそのうちの「天」の試練の場であった。
玉虚は元々、道心をはかるためのものではなく、留雲借風真君が己の心を静めるために作ったものだったのだが、削月築陽真君と理水畳山真君の提案のもと、仙道を求める者のために譲ることにした。その後、帝君が承諾し、帰終と歌塵も賛成したので、留雲借風真君は快く玉虚を譲り、そこに小さな亭を建てた。
今や、仙道を得られる者は極めて稀だ。俗世において伝説となりつつあった「玉虚」は、再び留雲のものとなった。だが、雲上に戻った彼女の心境は、昔とは異なるものであった。
果てしなく広がる雲海に陽が昇っては沈む…その光景は確かに壮観だが、俗世の賑やかな日常にもまた、それなりの趣がある。
閑雲という名で人と共に生きる——今の彼女にとっては、そのほうがより楽しみなことなのだ。
「ちょうど小腹が空いてきたな。今日は万民堂のかにみそ豆腐をいただくとしよう。」


神の目
璃月の仙人は、天地の間に漂う元素の力から生まれた純然たる元素生物である。つまり、常人と比べて「道」の根源に近い。
閑雲にとって、元素力を導くことはほとんど無意識のうちにできることであり、何らかの器官に頼る必要もなければ、もちろん神の目も必要ない。
だが、人の姿で俗世に生きる以上、その身も俗世の法則に従うのがよいはずだ。神の目を身につけても、それを媒体として元素力を駆使することは容易いだろう。——そう閑雲は考えたのである。
そのため一般人と違って、閑雲は腕に着けた神の目をさほど重視しない。しかし、閑雲には神の目のお陰で気づいたことがあった…
以前、荻花洲でがっちりとした体格の農夫が、いかにも弱そうな強盗二人に匕首で脅されているところに出くわした時のことだ。農夫は手にクワを持っていながら、小柄な強盗たちに抗うどころか、ガタガタと震えるばかりであった。助けようと思って歩み寄った閑雲だったが、か細い女にすぎないと思ってか、農夫はこう言った——「やめておけ。巻き込まれたら、怪我をしてしまうぞ」
しかし、話しながら彼女が横を向いたとき、農夫は閑雲が神の目を持つ「侠女」であることに気づき、態度を一変させた。「共に強盗共を追い払ってくれ」…そう言いながら、クワを振り回して強盗に向かって突進したのだ。そして農夫はなんと、クワ一本で強盗を追い払った。閑雲が手を貸したのは、強盗の一人が手にしていた匕首を落としてやったことだけである。農夫は、彼女の腕にキラキラと輝く神の目を見つめながら、繰り返し嘆いた。「俺にも神の目があればな…」
農夫に必要だったのは神の目などではなく、ほんの少しの勇気だった。にもかかわらず、神の目に気付いたとたん、まるで別人のように振る舞えてしまうほど、彼の心は神の目に大きな影響を受けた。人間がどれだけ外部の影響を受けやすいものなのかを如実に表した一例だろう。
農夫の反応が理解できず、彼女はしばし戸惑った。
世の物事には必ず、客観的な性質が存在しているものだ。しかし、その表面だけに囚われ、媚びを売ったり蔑んだりするのはなんと愚かなことであろうか。閑雲はこれまで生きてきた中で、一貫してはっきりとした物言いをし続けてきたが、その言葉は常に物事の表面に留まらず、根本に触れるものであった。
尊敬に値する人には敬意をもって接し、そうでない人には冷ややかな態度を露わにする。留雲借風真君のときも、侠女閑雲のときも、その性格が変わることはない。
「よく見るがいい、私はほとんど手を貸しておらぬ。お前一人で敵を打ち倒せたのだから、もっと自信を持て。」そう言い放つと、閑雲は袖をひるがえして立ち去った。
義侠の心を以て俗世を濯ぎ、慧心を以て天道を伝える。今日も、閑雲は颯爽と俗世を渡り歩く。

キャンディス

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キャラクター詳細
アアル村を訪れるすべての旅者に対し、キャンディスは必ず最大の善意を尽くし、一部の人が無礼を働けば、相手をすぐに正してそれ以上の追求はしない。
キャンディスにとって、何よりも重要なのが村の掟だ。この辺境の地を尊重しさえすれば、誰もがアアル村で休息を取ることが許された。
しかし、もしこの寛容な態度を弱さと見なし、アアル村で不義を働こうとする者がいれば、もっとも大きな代償を払うこととなる。
その時、彼らはキャンディスの槍と盾が何よりも恐ろしい武器だと気づくだろう。
アフマルの子孫、砂漠の民、ガーディアン…重き身分を背負ったキャンディスは、アアル村を守るという永遠の職責を担っているのだ。
「この村では、掟を守る人だけを歓迎します。」


キャラクターストーリー1
「アアル村こそが、キングデシェレトの末裔にとって最後の安息の地である。」
「アアル村の『ガーディアン』の使命とは、最後のキングデシェレトの民がいなくなるまで、この村を守り続けることである。」
八歳の時、キャンディスは正式に新たな「ガーディアン」に任命され、彼女に職位を授けた者からそう忠告された。
キングデシェレトが逝去し、彼ら末裔がこのような俗世から離れた地を手にしたのは何よりも良いことだった。
ガーディアンたちは代々、黙々とその職務を執行した。無数の村人が「キングデシェレトの末裔」としてこの世を去り、永遠の安寧を手に入れられるよう守り続けた。
そうやって村の中で静かに消失していくことが、アアル村の人々の悲願なのだ。
しかし、この古の村に新たな生命が現れた時…これまでのすべてが、変化せざるを得ないかもしれない。


キャラクターストーリー2
村長のアンプおじさんが、スメールシティからやってくるキャラバンがまもなく村に到着し貿易を始めると宣告すると、前任の「ガーディアン」たちは自身の耳を疑った。
考えが古い前任の「ガーディアン」たちは激昂し、「お前は伝統を破壊している」と責め、現任の「ガーディアン」であるキャンディスに守衛を集めて商人たちを追い出すよう要求した。
しかし、キャンディスはそれを拒否した。彼女はすでに村長と合意していたのだーー村の人々の未来のため、アアル村は変わらなければならないと。
何度も説得したが、前任の「ガーディアン」たちは聞く耳を持たなかった。さらには「キャンディスがやらないのなら、自分が武器を取ってガーディアンとしての責務を果たす」と主張し始めた。
最終的に、槍と盾のぶつかる音が彼らの激しい口論を鎮めた。キャンディスは立ち上がり、槍と盾を手にして微笑みながら周囲を見回すと、驚いた表情の古参たちに向かってこう言った。
「皆さんの気概が見られて、私はとてもうれしいです。」
「でも、今のアアル村の『ガーディアン』は私ですから、皆さんはもう休んでいてください。」
武器の説得力が言葉に勝ったのか、激しい口論も止まったようだ。
短い準備の後、キャンディスは「ガーディアン」として村長に同行した。そして、正式にキャラバンを迎え入れて彼らと貿易の交渉を行い、相手が村から出る時は自ら護衛についた。
数日後、再びキャラバンが村を訪れると、一見何の変哲もない布地の取引を済ませていった。
このキャラバンが取引を成立させた情報をスメールシティに持ち帰りしばらくすると、スメールの商人たちの間で新たな話題が出回り始める。
「なぁ、知ってるか?アアル村に商売をしに行ったらかなり儲かったらしいぞ!今度、俺たちも試してみないか…」と。


キャラクターストーリー3
実際のところ、キャンディスが槍と盾を使って他人と発言権を争うようなことはほとんどない。
アアル村の子どもたちはいつも「キャンディスお姉ちゃん」がどんなに怒ったとしても、ただ眉をひそめて、悪いことをした子どもにクルスームおばあちゃんが用意した法帖を書き写させるだけだと思っていた。
アアル村の他の守衛たちは、キャンディスの要求は厳しくとも、適切に行動しない人や怠惰な人に対して彼女は体罰を加えることはせず、懇切丁寧に彼らを指導すると思っていた。
村の老人たちは、キャンディスは負の感情を表に出さない人だと思っている。彼女はこれまで、彼らの前で悲しい顔を見せたことがなかったのだ。
村を訪れる商人ですらも、キャンディスからはとにかく完璧なおもてなしを受けた。出迎えから宿泊に至るまで、すべてが彼女によって整然と手配された。
彼女があまりにも優しすぎるせいか、商人たちを少し不安にさせてしまう程であったーー
この村は、大赤砂海に隣接しているのだ。周囲には多くの魔物がいるだけでなく、無法者の盗賊たちがこの村を狙っているに違いない。
このような「ガーディアン」で、本当にみんなの暮らしを…それと商売を守っていけるのだろうか…?
ある晩、酒が入りすぎた行商人が勇気を持って聞いてみた。
「ガーディアンさん、俺たちはこの村で商売ができるようになったけど、知ってるでしょう?この砂漠には無法者もたくさんいるってことを…」
「それなら心配いりません。掟を守る人だけがアアル村のお客様ですからーーつまり、掟を守らない人は…」


キャラクターストーリー4
掟を守らぬ者はアアル村の「敵」である。
砂漠に身を潜めるエルマイト旅団、冒険者になりすましてやり過ごそうとする盗賊、荷物を奪うため現れる宝盗団……この村を脅かそうとする者は、どんな手段で逃げ隠れしようとも最終的には相応の罰を受けることになる。
心から罪を認めて反省した者は赦され、砂漠を越えるのに十分な補給も与えられるが、その代償として彼らは二度とアアル村の周囲に姿を見せてはならない。
頑なに抵抗を続ける者の場合…その卑劣な魂は、その場で砂礫と運命を共にするだろう。
砂漠を離れたあるエルマイト旅団のメンバーはかつて仲間に対し、アアル村の恐ろしい「ガーディアン」キャンディスこそ真のキングデシェレトの末裔だと警告した。
彼女の盾にはアフマルの祝福が宿っている。盾を手にすれば、大赤砂海のすべての砂礫が彼女の呼びかけに従う。彼女が願えば、巨大な砂嵐を引き起こしてすべての敵を呑み込むことすら可能なのだ。
それだけに留まらず、彼女の琥珀色をした左目には未来を見通し、相手の運命を見抜く力があるという。これほどまでに恐ろしい存在の彼女だ、その追跡から逃れられる者は誰一人としていない。
人々は、キャンディスがこれら神通力でアアル村にとっての「敵」をすべて一掃したと信じている。


キャラクターストーリー5
アフマルの恩恵を真に感じ取ったことがないのは、キャンディス自身が知っていた。
「ガーディアンは未だかつて神に祝福されたことがない」ーーこれは「ガーディアン」の間に伝わっている秘密だ。
新たに「ガーディアン」となり盾を手にし、正式に任命されて初めて、その者は真実を知らされる。
真実を知った「ガーディアン」の反応は様々であり、ある者は自暴自棄になって落胆し、武芸の修練すらも怠けるようになる。またある者は自分が見守られていないのなら規律を守る必要がないと身勝手な行動をし、果てには掟を無視する。
しかし、キャンディスはその事実で落胆することはなかった。
「私の槍と盾は、神の恩恵を祈るために振るうものではありません。」
「神の祝福があろうと無かろうと、『ガーディアン』の責務が変わることはありません。」
来る日も来る日も彼女は鍛錬に励み、他人より優れた意志と武芸を自ら身に着けた。
アアル村を訪れた多くの客人がキャンディスを引き抜こうとした。彼女は誰よりも優れているのに、どうしてアアル村のような目立たない場所に留まる必要があるのか?もし彼女が外の世界に出たいと思えば、新しい事を始めるのも不可能ではないかもしれないのに…
しかし、キャンディスはいつもこう答える。「『ガーディアン』が守るべき対象から離れることはありません」と。


キャンディスの装飾品
キャンディスはよく、アアル村を訪れた客商から様々な装飾品を購入する。
水色の石がはめ込まれたヘアピン、シルクでできたヘアバンド、金メッキが施された首飾り、カルパラタ蓮の模様が刻まれた金属の腕輪、教令院の各大学院の紋章が描かれたペンダントなど…
ディシアからは、普段からもっとおしゃれをしてお金を自分のために使ったらどうだと勧められるが、装飾品の中にはあまりに脆いものもある。普段の仕事環境のことを考えると、せっかく買った品を壊してしまうのではないかとキャンディスは心配し、結局それらを衣装棚の奥にしまっていた。
どうやら、これらの装飾品はキャンディスが一時的に「ガーディアン」の職務から解放され、他の服に着替えて日陰で休む時になって初めて役立ちそうだ。もしくは、いっそのことプレゼントとして友人にあげてしまう手もある。


神の目
部外者がひっきりなしに訪れ、アアル村は未だかつてない状況に置かれていた。
商人を装って村に潜入した宝盗団、キャラバンを脅かす傭兵集団、悪巧みをする悪徳行商人…
それに、外の人々と関わったことでアアル村の住民たちは次第に外での生活に憧れを抱くようになった。そうして次第に外で生計を立てようとする人が増え、村に残りたいという若者が減ってきた。
前任の「ガーディアン」たちは伝統に「背いた」キャンディスに早くから不満を抱いていた。アアル村がそんな状況に置かれているのを見て、彼らは再び会合を開きキャンディスを非難した。
「ガーディアンがすべきことは、村の秩序を守ることではないのか!」
「キャンディス!お前のやっていることはすべて、この村から平穏を奪うことにしかなってないではないか!」
「キャンディス!今すぐ自分の職務を全うしろ!」
激しい論争の最中、長槍を持った女戦士が猛然と立ち上がった。
「もう十分です!」
「あなたたちがこの村の『過去』をそんなに守りたいと言うのなら、自分で守ってください!家の中に閉じこもろうが、アアル村を離れようが、あなたたちの勝手です!」
「私はアアル村の人々を永遠に『過去』に縛り付けておくことはしません。」
「あなたたちが前に進もうとしないなら、私が一人でみんなの『未来』を守ります!」
古参のガーディアンたちは女戦士の激昂する様子に驚いた。若く、炎のように燃え上がる瞳を前に、彼らはそれ以上問い詰めることなどできなかった。
めったに見せない怒りと共に、キャンディスは長槍を持って争いにまみれた小屋をあとにした。
まるで彼女の信念に応えるかのように、槍の先端にはいつの間にか輝く「宝石」があった。
神の眼光が彼女に気づき、彼女を認めたのだ。
「神の目」、それは揺るぎなき心。それは最良の装飾品となる。