図鑑/書籍/本文2

Last-modified: 2023-12-20 (水) 04:12:44

物語:キャラ/ア-カ | キャラ/サ-ナ | キャラ/ハ-マ | キャラ/ヤ-ワ || 武器物語 || 聖遺物/☆5~4 | 聖遺物/☆4~3以下 || 外観物語
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図鑑/書籍/本文2

少女ヴィーラの憂鬱

本文を読む

◆第1巻
――百億の世界と百億の昼夜――
「たまに思うけど、この町つまらなすぎじゃない?」
デルポイに住む少女ヴィーラはまたつぶやいた。町の近くにある丘の斜面に横になった彼女は、目を瞑って初夏のそよ風を感じている。
「じゃ、どこならつまらなくない?」隣りにいる彼女の友達、少年サッチが問いかける。
ヴィーラは前屈をするような姿勢で上体を起こした。
「この星の海の向こうに、きっともう一つの星があると思う。そこにはすべての祈りと願いに応えてくれる神様がいて、願いを持つ人は神様のところへ向かうの。あと宇宙のどこかに世界の終わりと戦う星があって、その星には14名の戦乙女がいるって信じてる。彼女たちの美しく崇高な魂が儚く燃えているのよ……」
「君、変な小説を読みすぎだよ」
「ああああっ……ここって本当につまんない。何か面白いことないかな?」
「そう言えば、最近町に引っ越してきた人がいるけど……」
「そういう事じゃない!」
とは言え、ヴィーラはその人に挨拶しにいこうと思った。サッチは門限の事を思い出し、夕飯前に自宅へ帰る事にした。

……
ヴィーラは新しい住民の家の扉をそっと開ける。鍵はかかっていなかった。
「誰かいませんか?」
と、その時、突然リビングにある戸棚の影からメガネをかけた黒髪の少年が飛び出してきた。そして、彼と共に青い粘液を纏った触手も姿を現す。
「くっ、通すか──!おい、タール、どうして勝手に人を入れたんだ?」
黒髪の少年はヴィーラを軽く押しのけ、ドア近くにあった斧を持ち上げた。
「仕方ない、見られた以上はこうするしか──」
ヴィーラ、人生最大の危機か?!

◆第2巻
――俺の庭は宇宙より広い――
「あんたに手伝ってもらうしかない」黒髪の少年は「エーク」と名乗った。彼はヴィーラに包丁を手渡す。
彼は棚の前に立ち、猛然と触手を切り刻み始めた。
「ドアを閉めろ。もし触手が攻撃を仕掛けてきたら、その包丁で身を守るんだ」そう言ったエークの眼鏡は青い粘液に染まっていた。「急げ!デルポイにこの邪神を降臨させてはいけない」
ヴィーラはドアを閉じる。
触手の猛攻をさばいているうちに、エークの背中には刺し傷が二箇所。幸いにも、エークの治癒魔法により傷は癒えた。
「ああ、実は言うと、俺は1000年生きているんだ。このドアは宇宙のありとあらゆるところに繋がっていてな。さっきのは大マゼラン雲の旧支配者だ、そこである物を拝借しようと思ったんだよ」エークの全身は粘液まみれだった、彼はヴィーラのスカートで眼鏡の汚れを拭き取る。「で、他に聞きたいことはあるか?」
「タールって誰?」ヴィーラは、あまり興味なさそうに尋ねた。
「あいつはカニバルキャッスルの悪霊だ。俺の支配下に入ってからは、ずっと執事を務めてくれている。どうして彼が、お前に親切なのかは謎だけどな」

ヴィーラの両親はずっと「人はいずれ自分の家庭を築く。遠方への憧れは永遠に叶わない」と口を酸っぱくして言ってきた。親友であるサッチは「君みたいな破天荒な子が遠方に嫁いだら、この町が寂しくなるな」と言った。
(サッチの場合、ただ単に貧弱だから、男友達にいじめられると思って言っただけかもしれない。)
「人間の精神は未熟だ、俺はお前たちを幼少期からその先へと導く必要がある」エークはヴィーラに誘いの手を伸ばした。「一緒に歌おう、そして青春を送るんだ」
オリオン座から永久の魔神の城へ、時間の激流から星の海が輝く奥の奥まで……
「どれほど離れれば、それは遠方となる?俺の庭は宇宙と同じくらい広い」と彼が言った。
「遠方の定義は心とともに変わる」エークは続けて言う、「俺の心は宇宙よりちょっとばかし広いぞ」

◆第3巻
――孤星を盗んだ者――
「余はアンドロメダ座帝国の第二皇位継承者、名前は200文字以上。とりあえず、余のことはアンドロ・バジリクス姫と呼ぶがよい」可愛らしい少女が腕組みをしていた。先ほどの登場シーンを思い返しているのか、満足げに小さく「ふふふっ」と笑っている。
姫様がデルポイに来た目的は、エークと結婚するためだった。
「宇宙の四分の一にその異名を轟かせるあんたと結婚すれば、姉が即位した後の余の身が保証されたも同然」
「その、アンドロメダ座帝国ってどのくらいの大きさなの?」とヴィーラが聞く。
「居住可能な惑星は9000を超えてるかな」
──こいつ、そんなにたくさんの星を持ってるのに、私の光まで奪う気なの?

「ねえ、ヴィーラを傷つける気じゃないよね?」サッチは、巻物と惑星の天体儀を運ぶエークにおそるおそる尋ねる。
「もちろんだ。彼女は俺の助手に向いてると思ってな」荷物を置き、手についた汚れを落としながら言う。「お前、あいつのことが好きなのか?」
「ぼ、僕に、そんな気はないよ」サッチは1000年を生きた賢者に心を見透かされるのではないかと恐れ、視線をそらした。
すると、サッチの目にアルバムがたくさん詰め込まれた箱が映る。彼が何気なく何冊か手に取り中を見ると、そこには多種多様な美女たちがいた。
「あー、それか。そこに写っている女たちが、『私の唯一の愛をあなたに捧げるわ!』とか言ってきたんだが、本当に唯一だったんだか。どうせ過去にも、同じようなことを言ってきてるんだろうな」
その言い草にちょっとイラっとしたサッチは、どこで聞いたか覚えていない言葉をふと思い出し口にした。
「──君、そんなにたくさんの星を持っているのに、なんで僕の光まで奪うんだよ?」

◆第4巻
――光り輝く全てのものは――
「この写真に写っている人達、みんなとても綺麗ね」ヴィーラはエークの箱を持ち上げた。箱の中はアルバムでいっぱいだった。
「綺麗じゃなければ、記念に写真を残そうだなんて思わないよ」
エークは何か包み隠すことはしない。彼は千年以上生きている宇宙の賢者だ。女の子が簡単に気付く事も、些細な事で癇癪を起こす事も知っている。エークは決して女の子を騙さない、男性の鑑だ。
「星の形をしたダイヤを作り出せるのは、星の存在を知ってるからだ」とエークが続ける。「でも、宇宙で光り輝く星達は、誰の所有物でもない。だから、それらを奪う事は出来ないのだよ」
ヴィーラは意味が分からず「何を言っているの?」と首を傾げる。
「この場にいないお馬鹿さんに言っているんだよ。気にしないで、人間が若すぎるだけなんだ」

「君とエークの仲を取り持ってやるよ」と、サッチはアンドロメダ座帝国の姫に向かって大声で言った。
「は?」
「僕はヴィーラが好きなんだ。だから――」
「気持ち悪い。くだらない。耳が汚れるから口を開かないで。ヴィーラはもう余の友達よ。あなたのような意気地なしには渡せないわ」
「あ、あぁ……」

◆第5巻
――神々の路上ピクニック――
エークが昼寝をしている間に、彼の従者たちの間で大きな戦いが起こった。
偉大な魔術師は様々な神や悪魔を降伏させ、自らの従者としている。エークは魔術師の第一人者であり、彼の従者の数は辞典の収録語数よりも多い。いったい誰が一番強い従者なのか?それを決めるため、従者である魔神たちの間で戦いが起きたのだ。
不幸にも、魔神たちは姫、サッチ、ヴィーラのことも従者だと思っていた。
エークが寝ていたのは2時間。その間に3つの星が滅ぼされた。

「余はなんで、あんたを守ってるのかな」姫が手を差し伸ばす、その横で大悪魔が眼球を失って地面へ倒れた。
アンドロメダ座帝国の支配種族は見た目こそ可愛いらしいが、その手の平には敗者や恋人の目を捕食するための2つの特殊な口がある。
「私たち、友達じゃないの?」ヴィーラは悲しそうに、顔についた血を拭った。
「うんうん、そうだよ」姫は照れくさそうに目をそらす、「前回のことで、あんたは余の唯一の友達になった。だから、さっきの言葉はヴィーラに言ったんじゃない」
「え──」サッチが巨龍の口にくわえられる。
「どうじゃ、降参か?」巨龍が老齢な声で聞いてきた、「自分たちは下衆で無能な輩じゃと認めて降参すれば、見逃してやろう」
「降参──降参するからっ!」サッチは大声で叫ぶ。
「たかがトカゲ風情が能書きたれないで。あんたよりうちのヤモリの方が厄介なんだから!」姫が指の関節をポキポキと鳴らす。
「僕は関係ないのにぃぃぃ――」サッチは巨龍と共に上空へと吹き飛ばされた。
アンドロメダ座の支配種族と古代巨龍の決着は一瞬でついた。

大人しく降参すれば、見逃してくれるって言ってたじゃん。
サッチはリタイアし、スリッパでエークを叩き起こした。ヴィーラも姫に守られて生き残ることが出来た。
「うわあ、無能の輩、見るだけで吐き気がする。下衆、近寄るな、話しかけるな、こっち見るな、同じ空気吸うな」姫のサッチへの態度はすこぶる冷たかった。

◆第6巻
――数多のお祭りへ捧ぐ――
近頃は大事件がたくさん起きたが、それらは全て宇宙での出来事に過ぎない。今、比較的に平凡な出来事が始まろうとしている。もうすぐ、この小さな町でお祭りがあるのだ。
「今度は、私がこの町を二人に紹介する番かしら?」ヴィーラは手料理を姫とエークの前に並べる。
以前の宇宙冒険では、姫とエークに教えられてばかりだった。ヴィーラが何か二人に披露できる知識があるとするなら、故郷に関する事しかないだろう。
「……それで、王様の使者、勇敢な騎士ホフマンは西に向かい、大陸を2つ、そして海と河を越えたの。その時、偉大な賢者である東の巫女、浮萍夫人は故郷を出て、薄暗い国の国境を越えた。そして、二人はここで出会ったの」
「そうなのね。すごいわ」姫は大袈裟に声をあげる。このおとぎ話に全く興味がない事を、ヴィーラには悟られたくなかったのだ。
「つまり、ここは丁度王の都であり、この星の対称点であっただけの話だ」エークは適当な突っ込みを入れた。
「あはははは、言われてみればそうね」ヴィーラは後ろ髪を触りながら笑う。

「私ずっとここを離れたいって思ってたの。でも結局、私はここしか知らないのよ」祭りの前夜、突然その事に気付いたヴィーラは、サッチの前で泣き出してしまった!
「この馬鹿!何ヴィーラを泣かせてるのよ!」飛び蹴りと共に登場した姫によって、サッチは飛んで行った。

◆第7巻
――星海戦記――
「再び太陽を灯す事は難しくない。でも、これはアンドロメダ座帝国はそれを望まないだろう」エークはパニックになっているヴィーラに言い聞かせた。
「つまり、姫がサッチを誘拐したって事?」考え込んでいたヴィーラが、驚きの声を上げる。
「どう考えたらそうなるんだ。僕が言いたいのは、姫とサッチを捕らえられるのは、アンドロメダ座帝国しかないという事だ」エークは振り返り、星系の数千もの生命体と向き合う。
暫くの沈黙の後、エークは声を張り上げた。「星に生きるもの達よ。俺は聖王リバンニに招かれ、残り少ない恒星に火を継ぎ足すために来た。だが、アンドロメダ座帝国を*それをよく思っていないらしい。俺の友人は捕らえられてしまった」
「お前は二人の命をここにいる皆の者に託すというのか」聖王リバンニは聖座から立ち上がる。「ならば、私はなんのために、星海諸島を統一するのだ?」

最終的に、聖王は決死の覚悟で単騎突入し、アンドロメダ座帝国の刺客を打ち負かした。姫とサッチを救い出した後、彼女はエークと短い会話を交わした。
「まさか、アンドロメダ座帝国の支配種族を倒すとは。あいつらは強い。聖王の試練である聖龍討伐を成し遂げたのも納得だ」エークは称賛の言葉を口にする。
「実は私がその聖龍だ。リバンニの肉体と融合した後、私は彼女にずっと従っている」
「おぉ……」エークは驚きの声を漏らす。
「そう言えば、あいつが第二皇女のお気に入りなのか? 私が部屋に入ったとき、二人はちょうど……」
「なんだと!?」エークは本気で驚愕の声を上げた。

◆第8巻
――女の子達は――
「だから全部誤解なんだよ。僕はあの時食べられる所だったんだ」サッチは説明する。
「食べようとしていたのではない」エークは眼鏡を押し上げた。「アンドロメダ座帝国の支配種族の手の平には、眼球を捕食する器官がある」
「見た事ある……ヤツメウナギの口みたいだった」サッチは己の言葉に、体をブルっと震わせる。
「最後まで聞け」エークは己の目を指さそうとして、誤って眼鏡に指紋をつけてしまった。彼は眼鏡を外し、改めて左目を指す。「彼らが眼球を食べる時は、二つの意味合いを持つのだ。一つは服従……」
そして今度は右目を指さす。「……もう一つは恋慕」
サッチは自分の両目に触れながら、自分に向けられたのはどっちの感情なのかを考えた。
「正直、姫自身もこの二つの違いを理解していないだろう。姫に服従する者、姫が征服したもの、姫を愛する者ーー姫の目にはどれも同じように映っている。皇室の権力争いで、己に危害を与えない存在でしかない」
「それでアンドロメダ座帝国の刺客は、姫も誘拐したのか。まさか、裏には他の継承者がいるとか!?」
「俺は継承者争いに巻き込まれるのはごめんだ。だから、あいつはお前が支えてやってくれよ」
「だーかーらー! 僕とあいつはそんな関係じゃないって。あいつ、僕の事が大っ嫌いなんだぞ?」

同時刻、女の子達は何を話していたかって? それは永遠の謎さ。

◆第9巻
――深海の断魂古神殿――
ヴィーラとサッチが成長するにつれ、4人の関係には微妙な変化が訪れていた。
「もう君の言い訳にはうんざり」サッチがエークに向かって言った、「例え君がヴィーラにそんな感情を持っていなくとも、ヴィーラは君と一緒にいたいと思ってる」
エークは遠方を象徴し、未知と珍しさの隠喩である。勇敢な鳥は一生巣を築くことがなく、恋慕の風と共に生きていく。
エークはサッチに答える、「どう考えても、1000年を生きた者じゃ年寄り過ぎて釣り合わないだろう」
「余の年齢とぴったりじゃん」と姫は嬉しそうにすすっと近寄ってきた。

勇気を出して告白しようとしたサッチに、残酷な運命が待ち受けていた。
エークとヴィーラが出会った最初の頃、古神からもらった古い剣のことを覚えているだろうか?
あれはエークが運命の歯車を回すために手に入れた鍵であった──今、ヴィーラの指はこの剣に切られ、凶悪な古代のウィルスに感染し死んでしまった!

「君のせいだ!」サッチはエークの襟首を掴んだ。普段のエークならとぼけて笑うだろう──彼の性根は善良な老人なのだから。でも、今回はサッチの手をはらった。
「あんたは時間を巻き戻すことができるんでしょ?ヴィーラを助けて!」姫もエークへと嘆願する。
「お前らはわかっていない。過去を救えるのは未来だけだ。過去を変えるだけでは、ヴィーラのいない未来を救えないんだよ!」エークは血が滲むほど唇を噛む。

「あるところにこんな神話があった。白銀時代の人類は幼少期が長く、それは200年もあったという。故に儚い成人期は苦難に満ちていた」
他の人にとって、幼少期はすでに終わりを告げているが、青春はまだ手の届かない先にある。
ヴィーラのいない『少女ヴィーラの憂鬱』、また次回で!

◆第10巻
――少女ヴィーラの憂鬱――
ヴィーラを生き返らせるため、サッチ、エーク、姫は20年に渡り壮大な冒険を繰り広げた。戦ってきた相手は地獄大君から星を呑み込むスタードラゴン。3人はついでに2つの星系と銀河帝国をなんやかんやで救い、星にとって極めて害悪な4種の害虫を駆除した。
蘇ったヴィーラは、歴戦の宇宙英雄サッチに抱き抱えられていた。
二十年の時の流れは、アンドロメダ座の支配種族にとって大したものではない。姫は相変わらず可愛かった。ただ彼女の表情は微妙なものであった。心からの喜びだけではなく、そこには悲しみの色も混じっていた。
サッチは目を一つ失い、体は強靭に、身長もかなり伸びていたが、相変わらず泣き虫であった。彼の涙でヴィーラの肩が濡れている。だが、サッチはもう簡単には諦めないと心に誓っていた。
エークには何の変化もない、いつものように淡々と笑っている。
「俺はただの時間の響きだ」エークは儀式の準備を進める。「以前言ったように、過去は未来を変えられない。予定調和の法則は俺の手には少し余る。だが無限の可能性に満ちた未来なら救えるかもしれない」

エークは、サッチを旅に出た頃の20年前の少年の姿に戻した。4人はまるで何事もなかったかのようにしていたが、もうあの無邪気な日々には戻れないことを誰もがわかっていた。
「幼少期を失わせてしまってごめん。ほら行こう、これはお前が過ごすべきだった青春だ」エークはサッチにこう言った。
「君のために宇宙で不思議なことを経験してきた」サッチは運命の人に向かい、勇気を振り絞って言った、「君がいなければ、僕は青春を過ごすことができない」

返事はいったいどうなるか!
作者は9巻目までの印税で夜遊びに行っています。星のどこかで見かけたら、ぜひ催促してください。

蒲公英の海の狐

本文を読む

◆第1巻
「蒲公英よ、蒲公英よ、風と一緒に遠くへ行け」
子狐が唱える。
そして、蒲公英に息を吹きかけ綿毛を散らした。
「これで先生の願いを、風が風神まで届けてくれるよ」
その時、一陣の風が吹き、大量の蒲公英を連れて行く。
俺の夢を連れて、どこか楽しい場所に行くのだろうか?

いつの事だったのだろう。
昔、村の裏に小さな林だった*。林は木々がうっそうと茂っていて、その中心に小さな湖があった。
湖は、モンド大聖堂のガラスのようにピカピカだった。
木の葉から透けた太陽が水面を照らし、砕いた宝石をちりばめた様に美しかった。
それは肌寒い日だった。弓を背負い林で狩りをして、いつの間にか湖の側まで来ていた。輝く水面を見て、なぜか遠い昔に片思いしていた子のことを思い出す。
その子がどんな人だったのかは忘れてしまったが、なぜか彼女の瞳はこの湖のように、輝く宝石がちりばめられていた気がする。
俺はきっとこの輝く湖に気を取られてしまったのだろう。狩りの最中である事も忘れて、水辺をゆっくり散歩していた。
何かが凍り付いた音がして、はっと我に帰る。見ると、水辺に霧氷花が一束落ちおり*、周辺の水が凍っていた。その側で、一匹の白い狐が、氷に捕らわれた尻尾を恨めしそうに見ている。
「水を飲んでいた時に、うっかり尻尾で、霧氷花周辺の水に触れてしまったのか」
霧氷花は危険な植物だ。一歩間違えれば、凍傷を負ってしまう。摘む時は、細心の注意が必要だ。
私を見た狐が逃げようと足掻いた。だが尻尾が氷にくっついているため、動くと痛みが走り声を鳴らした。
(これはダメだ…)
俺は思う。
(可哀想に。このままでは餓死してしまうな。それなら楽にして、今日の収穫にしてやろうか)
自家栽培した大根と一緒に煮れば、さぞかし美味い鍋が出来るだろう。考えただけでやる気が満ち溢れ、気分も晴れる。
俺は弓を取り出し、ゆっくりと近付いた。
「いい子だ、動くなよ」

◆第2巻
「いい子だ、動くなよ」
これは、俺の親父の親父が教えてくれたまじないだ。狐を狩る時は、この言葉を唱えれば弓を引く手が震えない。
矢を放とうとした時、狐は頭を上げ、俺を見据えた。その目は湖のように輝いており、砕かれた宝石が散らばっていた。
俺の心は、突風に吹かれたように乱れた。放たれた矢は曲がり、狐の尾を閉じ込めていた氷を砕いた。狐は尾を上げ、俺を一瞥すると、林の中へと駆け込んだ。
我に返った俺は、すぐに後を追いかける。だが、人が狐に追いつくわけがない。
狐の後ろ姿がどんどん遠ざかり、白い点になる。
「おい! に、逃げるな――」
俺は叫ぶ。息をするのも精一杯だった。
でも俺の叫びに、白い点が僅かに速度を落とした。
(俺を待っているのか)
そう思った。
(逃るつもりなら、とっくにいなくなっているはずだ)
狐は不思議な生き物だ。障害物のない広い場所で走っていても、気が付くと姿が消えている。
まるで、違う世界へ行ってしまったように。
俺は確信する。
(あの白狐は俺を待っている、絶対にだ)
狐を信じて、白い点をひたすらに追いかけた。走っていると、不意に風が吹いた。
身震いして、再び顔を上げる。
「おかしいな」
白い点は二つになっていた。
そして三つになり、四つになる。風が吹くにつれ増えていき、やがて数え切れなくなった。
その瞬間、一つの点が俺の目に飛び込んで来た。痛みに目を擦ると、辺りの白い点が全て、漂う蒲公英の綿毛である事に気づいた。狐はいつの間にか消えていた。
己の愚かさを嘲笑しながら、俺は家に帰った。
大根しか入っていない鍋を食べる。俺はひもじい肉のない鍋が、大嫌いだ。空腹を感じながらも、俺は眠りについた。
深夜に目が覚める。ドアの外で小さな物音がしていた。

◆第3巻
狐を逃し、味気のない大根を食べた俺は、空腹のまま眠りについた。狐の事も、この後に起こった出来事さえなければ、忘れていたのだろう。
夜中、ドアの外から聞こえる微かな物音に、俺は目を覚ました。
「イノシシが大根を盗みに来たのか?」
俺は飛び起き、ドアを開くと、そこに立っていたのは小さな小さな白狐だった。暗闇に浮かぶ白は、木の葉の隙間から水面を照らす太陽のように、輝いていた。
(昼間に見た狐だ)
俺は思う。と同時に、湖に沈む宝石のような目に、心を覗き込まれる感触も思い出した。
俺は寝ぼけ眼のまま、何も持たずに狐に近付いた。
狐は微動だにせず、静かに俺が来るのを待っていた。
一歩二歩と、近付くにつれ、狐はどんどん大きくなる。
目の前まで来ると、狐は人の姿になっていた。
背が高く、スラリとした長い首と白い肌を持った人だ。その瞳は湖のように、キラキラと輝いていた。まるで、太陽が木の葉の間から、水面を照らしているような光だった。
(本当に綺麗だな。俺が片思いしていた子によく似ている。名前はもう覚えてないが、この目は絶対に彼女と同じ目だ)
俺は思った。
(これが狐の術か)
おかしい。なぜ俺はすぐに「狐は術を使える」と分かったのだろう。いや、あの目を見ていればすぐに気付く。きっとそうだ。
術も狐が人になるのも、この輝く湖の瞳とは比べ物にならない。俺達は静かな夜の中で、何も言わずじっと立っていた。
彼女は口開き、言葉を発した。それは共通語ではなかったが、俺には理解できた。これも狐の術のせいだろう。
「助けていただけなかったら、私は湖で命を落としていたでしょう」
彼女は少し考え込むと、再び言った。
「あの宝石のような湖で死ねるのなら、悪くありませんね」
「でも、狐は恩を返す生き物です。必ずお礼をします」
彼女は頭を下げ、俺にお辞儀をした。黒い長髪が、流れる水のように肩から落ちた。

◆第4巻
あの夜から数日経ったが、狐は二度と現れなかった。
だがここ最近、林の獲物が段々増えてきてる。
小さなヤマガラ、足の長い鶴、せっかちなイノシシ……
季節によるものか、または狐の恩返しなのか。ともかく、ここ数日は毎晩、本物の肉にありつけている。
だが、狐は二度と現れなかった。
腹を空かせていた頃の方が、よく眠れたのはなぜなのか。腹は満たされているのに、気付けばあの日に会った、狐が化けた女の事を考えている。
あの湖のような瞳と、いつ再会出来るのだろう。
すっきりしない気持ちで微睡んでいると、扉の外から微かな音が聞こえた。
小さな白い姿に期待しながら、慌ててベッドから降り、扉を開ける。
そこには湖色の瞳も、柔らかな純白の尾もなかった。ただ蒲公英が白い月明りの下で、ふわふわと雪のように浮かんでいた。
突然、何かが鼻の穴に入ってきた。
「は――はっくしょん!」
その瞬間、蒲公英の綿毛が舞い上がり、吹雪のように空を埋め尽くした。
蒲公英の吹雪の間から、あの宝石のような目が俺を見つめていた。まるで、心まで見透かされているようだった。
漂う蒲公英を払いのけ、俺は小さな狐に近付く。
狐は耳を震わせ、大きな尾で草を払ったと思うと、林の奥に消えて行った。
俺は慌てて追いかける。
林の黒い影の間に、柔らかな白い影が時折、見え隠れする。
まるで、月明りに照らされた意地悪な精霊が、優雅に駆け回っているようだった。
狐を信じて、その後を着いてグルグルとさ迷っていると、やがて暗い林から抜け出した。
目の前に、月光に照らされた、終わりの見えない蒲公英畑が広がっている。
言葉を失っていると、背後でカサカサと音がした。
軽やかで柔らかな、少女が裸足で松葉や落ち葉を踏みつけているような音だ。
狐は俺の背後に近付く。夜風に運ばれた彼女の息遣いは、冷たく湿っていて、蒲公英の花の微かな苦い香りが混ざっていた。
二つの手が俺の肩に置かれる。やや長い指をした冷たい手だ。
そして、彼女は俺の耳元で顔を伏せた。長い髪が俺の肩にかかり、流れ落ちていく。
背後から時折伝わる彼女の鼓動や呼吸が、心を落ち着かせてくれた。
「ここは狐しか知らない場所。蒲公英の故郷です」
「どうかここに残って、私の子供に人間の言葉を教えて下さい……」
「お礼に、狐の術をお教えします」
夜風が連れてきた蒲公英が耳元を掠めたような、くすくったさ*を感じる。
おかしい。彼女には術の話をした事がないのに、なぜ知っているのだ?
彼女は何も言わずに俺の手を取り、蒲公英畑の奥へと俺を連れて行く。
南から北から夜風が吹き、微かな苦みの混じった香と、おぼろげな記憶を連れてくる。
月が登るまで、彼女は俺の手を引き、飛び舞う白い絨毯の間で狐のようにじゃれ合った。

◆第5巻
どの位置に存在するのかも分からない、この一面に広がる蒲公英達を見て、俺はやっと理解した。
(狩りの最中に、追いかけていた狐が消えるのは、ここに逃げ込んだからか)
俺は思う。
(本当に美しい場所だ)
だが、子狐に共通語を教えているとき、心は空っぽで風が吹き込んでいるかのように冷たかった。
彼女の湖に沈んだ宝石のような瞳を眺めながら、会話をする時も、もしかしたらこれが最後かもしれないという考えが頭を過る。まるで、昔好きだった女の子と話している時のようだ。
だから子狐を見ていると、片思いの相手に既に子供がいたような感覚に陥り、楽しさと同時に、どこか辛くもあった。
だがあの時狐と交わした約束――ここに残り、彼女の子供に共通語を教えれば
「狐の変化の術をお教えいたします」
――そう厳かに承諾した彼女の姿を思い出すと、やる気が満ちてくる。
術を習得すれば、俺は鳥になって高い空を飛べる。一体どこまで高く飛べるのだろうか? 魚にだってなれる。そして、まだ行った事もないマスク礁まで泳いでいくのだ。
「ハハ、狩りにだって使えるぞ」俺は思った。「肉の入ってない鍋とはおさらばだ」
風になびく蒲公英達の中で、どれ程待ったのか。
一方、子狐の物覚えが早いのも原因の一つだろう。言葉だけでなく、算数や大根の植え方、ガラスの張替えからナイフの研ぎ方まで、一通り教えてやった。
俺達はよく休憩中におしゃべりをした。
「どうして人の言葉を覚えたいんだ?」
すぐに返事が返ってくる。
「人に変化できるようになったら、人と友達になりたいんだ」
俺はさらに聞いた。
「なんで人と友達になりたいんだ?」
子狐は視線を下げた。

◆第6巻
「どうして人の言葉を覚えたいんだ?」
俺は一度、子狐に聞いたことがある。
すぐに軽快な返事が返ってきた。
「人に変化できるようになったら、人と友達になりたいんだ」
「なんで人と友達になりたいんだ?」
難しい質問をしてしまったのか、子狐は足元を見る。
「遠く離れた林で、男の子を見かけたんだ」
狼みたいに顔が灰色で、目つきも狼に似ていたと子狐は続けた。
「あの時、僕は術を覚えたばっかりで浮かれていたんだ。二本足で駆け回るのはすごく面白いんだよ。でも、狐は人よりも背が低いし、見えるものも感じる匂いも違う」
「先生にも分かるでしょう? それで気付いたら、僕は迷子になっていたんだ」
当時の状況を思い出したのか、子狐の目に涙が浮かんだ。
その後、更に遠い林に迷い込み、魔物に遭遇したらしい。
食べられると思った瞬間、あの狼のような灰色の男の子が現れ、魔物を追い払ってくれたと言う。そして、男の子は何も言わずに、木々の奥へと消えていった。
「もし人になって、人の言葉も話せるようになったら、あの子を探し出して友達になるんだ!」
子狐は嬉しそうに言う。
それを聞いて、俺は思わず口を開く。
「俺は友達じゃないのか?」
子狐は大真面目な顔をした。
「お母さんが言ってたんだ。先生と生徒は違うって…でも、なんだか先生に悪いなあ」
子狐は首を傾げ、何か難しい事を考えているようだった。尻尾が悩ましそうに蒲公英を叩く。
「そうだ」
子狐が突然声を上げる。
「もし僕が先生に何か教えられるなら、僕も先生って事だよね」
「そしたら先生も先生だし、僕も先生だから同じになれるよ」
子狐はたどたどしい言葉遣いながらも、一生懸命に話した。
「僕だけが知ってる魔法、先生に教えてあげる」

◆第7巻
「僕だけが知ってる魔法、先生に教えてあげる」
子狐はたどたどしい言葉遣いながらも、俺と友達になるために、一生懸命に説明してくれた。
そして、小さな蒲公英を摘む。
「蒲公英、蒲公英よ、風と一緒に遠くへ行け」
子狐が唱える。
そして、蒲公英に息を吹きかけ綿毛を散らした。
「これで先生の願いを、風が風神まで届けてくれるよ」
その時、一陣の風が吹き、大量の蒲公英を連れて行く。
「ほら、僕の願いが風神に聞こえてたんだ」
嬉しそうに子狐が言う。
「どんな願いをしたんだ?」
「もちろん、先生と友達になれますように」
子狐が突然頭を深く下げた。
「お疲れ様です。我々狐の口は人の形とは違います。この子に言葉を教えるのは、さぞ大変でしょう?」
いつの間にか、狐が俺達の側にやってきていた。彼女の瞳は、底の見えない湖のようだった。その目に、子狐はそっと蒲公英の中に身を隠す。
「この子が人の言葉を話せるようになったら――」
俺は思った。
「この子が人の言葉を話せるようになったら――」
彼女は静かに言った。

◆第8巻
「あの子が人の言葉を話せるようになったら――」
彼女は静かに口を開いた。
俺はぼうっとその顔を眺める。
彼女がその後、何を話のか*よく聞き取れなかった。蒲公英を連れた悪戯な夜風が、その小さな声を覆い隠したのだ。
それとも、それが本来の彼女の言葉――風と蒲公英を使う言葉なのだろうか?
俺の呆けた顔を見て、彼女は笑い出した。
その笑顔はとても綺麗で、細めた瞳は湖に浮き揺れる二つの月のようだった。
「じゃあ、あなたはなぜ狐の術を学びたいのです?」
「俺は狐の変化の術を習得したい。そしたら、鳥のように空高く飛び上がり、どこまでも行ける……」
俺はそう答えた。
(はは、それなら狩りの時も茂みに隠れる必要もなくなる。鷹のように自由に空を飛べるぞ)
その後、不意にそんな考えが頭をよぎる。
そんな俺の心の声が聞こえたのか、手の中の蒲公英が月に向かって飛んで行った。
「そう……」
彼女は小さく俯く。黒い滝のような長髪が、白い首筋から滑り落ちる。青白い月の光が髪から白い肌を伝い、まるで夜空に浮かぶ雲を見ているようだった。
そんな彼女の姿を暫く見つめていたが、頬が熱くなるのを感じてそっと視線を逸らす。
狐は自由奔放な生き物だ。人間のように謙遜して己の美しさを隠すような事はしない。
見るのも触れるのも初めてではないが、月が彼女の長髪を照らす度に、俺は顔を赤らめ、目を逸らさずにはいられなかった。
彼女は俺から顔を背けて少し考え込んだかと思うと、小さく息を吐いた。どこか不機嫌そうな様子である。
俺達は黙ったまま、蒲公英畑の中に座っていた。長い沈黙に、俺は彼女を怒らせてしまったのではないかと思い始めた。
「狐は恩をしっかり返すものです。あなたの願いをかなえるために、変化の術をお教えします」
俺の方を向き、狐は言った。
月光に照らされた湖色の瞳の輝きに、安堵する。
よかった、どうやら怒っていないようだ。
上手く言い表せない感情に、俺はほっと息を吐いた。

◆第9巻
狐は聡明な生き物だ。そして、ずる賢くもある。
子狐は物覚えがよく、時折返答に困るような難しい質問も投げかけてくる。
人の言葉は純粋な獣の言葉と違い、複雑で精巧だ。
時々、言葉は猫が引っ掻いた糸束のように、あっちこっちに引っかかり、生徒の舌に絡みつく。そして教師までをも、その中に巻き込んで行くのだ。
だが、賢い狐はすぐにいくつもの「風」を意味する人の言葉を覚え、簡単な単語で蒲公英が舞い散る様子や、月が照らす池を形容出来るようになった。
子狐が新しい言葉を発見した時、それらを使って見慣れた風や蒲公英、大地に新しい表現を加えた時、彼女はいつもそばで微笑みながら、俺達を見つめていた。
子狐の成長に、俺は素直に喜べなかった。
教える事がなくなった時、彼女は俺をこの蒲公英畑に留まらせてくれるのだろうか。
その時、俺はまたこの月明りの下で、あの柔らかな瞳と見つめ合えられるのだろうか。
彼女はまた悪戯っぽい笑顔と共に、俺と蒲公英畑の奥でじゃれ合い、一緒に北風と南風が運んで来る苦い香りを吸い込めるのだろうか。
その考えに、憂鬱な記憶が蘇ってくる。
いつかは覚えていないが、好きだった子と別れた時も、今と似た月が空に浮かんでいた。
「本当にご苦労様です」
いつの間にか、狐が目の前に立っていた。彼女が頭を下げると、黒い長髪が肩から滑り落ちる。その柔らかな髪を月が照らし、光が水のように流れた。
「あの子が人の言葉を覚えたら、もっとたくさん、新しい友達を作れるのでしょう」
「本当に感謝しています。人の言葉を学び始めてから、あの子は随分朗らかになりました」
彼女は俺を見つめる。底の見えない瞳は、宝石のように輝いていた。
「でも、私達に人の言葉を全て教えた後、あなたはどこに行くのです?」
光を反射した水面のような瞳に捕らえられ、俺は一瞬返事する事も忘れてしまった。
これも狐の術なのだろうか?
狐は何も言わない俺を見て、笑いながら息を吐いた。
そして、月の方を向いたかと思うと、俺の手を引き月明りに輝く蒲公英畑の真ん中へと向かう。
それを見た子狐は尻尾を振り、夜に包まれた蒲公英畑へと飛び込んだ。

◆第10巻
子狐は遠くへ向かいながら、何度も名残惜しそうに振り返り、俺達に手を振ってくれた。やがて、その背中はどんどん小さく、最終的には白い点となって、蒲公英の海の中へと消えていった。
子狐が見えなくなると、彼女は振り返り俺に近付いてきた。
一歩二歩と、近付いてくるにつれ、狐はどんどん大きくなる。
俺の前に来た時に、狐は人の姿になっていた。
背が高く、スラリとした長い首と白い肌を持った姿だ。その瞳は湖のように、キラキラと輝いていた。まるで、太陽が木の葉の間から、水面を照らしているような光だった。
(本当に綺麗だな。俺が片思いしていた子によく似ている。名前はもう覚えてないが、この目は絶対に彼女と同じ目だ)
俺は思った。
術も狐が人になるのも、この輝く湖の瞳とは比べ物にならない。俺達はどこまでも続く蒲公英畑の中で、何も言わずじっと立っていた。
やがて、沈黙に耐えられなくなった俺は口を開いた。
「それが俺に教えてくれる狐の術なのか?」
「そうです。長い間、本当にありがとうございました」
彼女は頭を下げ、俺にお辞儀をした。黒い長髪が、流れる水のように肩から落ちた。
子狐との別れは俺の心に穴を空けたが、これで変化の術を教えてもらえると思うと、胸が躍った。
術を習得すれば、俺は鳥になって高い空を飛べる。一体どこまで高く飛べるのだろうか? 魚にだってなれる。そして、まだ行った事もないマスク礁まで泳いでいくのだ。
「ハハ、狩りにだって使えるぞ」俺は思った。「肉の入ってない鍋とはおさらばだ」
「では、そのままじっとしていてください」
彼女は俺の周りをクルクルと歩く。一周する度に、彼女の姿はどんどん大きくなっていった。
いや、それだけではない。周りの蒲公英もどんどん伸びている。最初は足元までしか届いていない蒲公英が、今は腰の位置までに来ている。最後は天にそびえる大木のようになった。
何かがおかしいと気付いた時には、彼女は既に巨人になっていた。

◆第11巻
何かがおかしいと気付いた時、ようやく俺は、自分が蒲公英になってしまったのだと分かった。
抗議したくとも、蒲公英には舌も口もない。声を出す事もかなわず、巨大な彼女が人差し指と親指で、俺を摘み取るのを黙って見ているしかなかった。
「蒲公英よ、蒲公英よ、風と一緒に遠くへ行け――」
狐は唱える。
そして、フッと蒲公英の種を吹き飛ばした。俺も暴風に巻き込まれ、遠くへと飛んでいく。
眩暈がする。湖に沈んだ宝石のような瞳と彼女の囁きが、俺の意識と共に遠ざかっていく。
「――我々を人へ変えてください、風神よ。我々が人の弓矢や刀に怯えずに済むように」
……
目覚めた時、俺は村の裏にある林にいた。
林は木々がうっそうと茂っていて、その中心に小さな湖があった。
湖は、モンド大聖堂のガラスのようにピカピカだった。
木の葉から透けた太陽が水面を照らし、砕いた宝石をちりばめた様に美しかった。
それは肌寒い日だった。弓を背負い林で狩りをして、いつの間にか湖の側まで来ていた。輝く水面を見て、なぜか遠い昔に片思いしていた子のことを思い出す。
その子がどんな人だったのかは忘れてしまったが、なぜか彼女の瞳はこの湖のように、輝く宝石がちりばめられていた気がする。
そうだ。俺はきっとこの輝く湖に気を取られて、いつの間にか眠ってしまったんだ。

イノシシプリンセス

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◆第1巻
古い伝説によると、大地の草木や獣は自分たちの国を築いていたらしい。
その時代、今のモンド城の土地は森であり、そこにはイノシシの遊び場があった。
イノシシの王国はこの森にあったという。イノシシ王の統治により、王国は豊かで幸せに包まれていた。
王には可愛い姫がいた。森で一番美しい鼻、一番白い牙と誰よりも滑らかなタテガミを持っていた。
姫は美しく優しい。彼女は毎日、最も甘くて瑞々しい果実を臣民に配っていた。
甘酸っばいラズベリーも、甘くシャキシャキしたリンゴも、美味しそうなキノコも、姫はます仲間にあげた。
王国の全てのイノシシが王と姫を愛していた。彼らはこう唱和する、毎日毎日。
「ふん~ふん~我が国王を祝福する、彼さえいれば、私たちが食べ物に困ることはない~」
「ふん~ふん~我が国王を祝福する、彼さえいれば、私たちが食べ物に困ることはない~」

【このページの横に小さな文字が書いてある。「おとうさん、あたしがまいばん
おかしを食べないで、まいにちかみさまにいのれば、イノシシになれる?イノシシになりたい、おいしいから。」】

◆第2巻
イノシシの森の北側には、冷たい氷原が広がっていた。
その時代、まだやんちゃだったバルバトスは、その土地に行ったことがなかった。そのため、そこは白い雪と寒氷に満ちた世界であった。
その土地に足を踏み入れた生き物は、誰もが寒さで震えてしまう。
「おおおう、寒い、寒いぞ、寒すぎて私のひづめが割れそうだ!」
最も勇敢で強いイノシシ王でさえ、氷原の寒さには耐えられなかった。
「ふんよお~ふんよお~寒いぞ、寒い。冷たすぎて私のひづめが紫だ!」
だが、そこには一匹の子オオカミがいた、その地で唯一の住民である。

【このページの一番下に拙い字で何か書いてある。「おとうさん、なんでオオカミの子はつめがわれないの?」】

◆第3巻
以前、狼は悩みのない子供だった。明るい青の瞳と、つややかな灰色の毛皮を持っていた。
威嚇する姿は、モンド大聖堂にある狼のレリーフと同じくらい迫力があった!
だがある日、彼が森で狩りをしていると、邪悪なリス「ウーバークァ」に遭遇する。
この古い大地では、ウーバークァよりも邪悪な魔神や悪竜はいなかった。彼は全ての美しいものを憎み、大地のあらゆる美しいものを醜くさせ、光を闇に変えようとしていた。
何の悩みもない、嬉しそうな子オオカミを見て、リスは憎しみを露わにしささやいた。
「グルル~、グルルッ!最も冷たき氷を彼の心臓にぶっ刺そう、二度と希望の光を感じられないようにしてやろう!」
そして、ウーバークァは呪文を唱え、子オオカミに呪いをかけようとした。
しかし、子オオカミが突如、ウーバークァを口の中に入れる。
ウーバークァは怒り焦った。子オオカミの口の中で、生まれてから覚えた汚い言葉を言える限り言った。
口から変な声が聞こえてきて、子オオカミはやっと自分が何をしたのか気付く。
「おっと、ごめんなさい、リスさん、あなたは食べられるリスだと思ったよ!」
と子オオカミは心の中でつぶやいたが、そのままゴクリとウーバークァを飲み込んだ。

【付箋が貼ってあり、そこには奇麗な字で何か書いてある「だから、リリー、外で遊ぶ時は知らないものを食べちゃだめだぞ。」】

◆第4巻
狼の胃袋の中で、どのような化学反応が起こったのかは不明だが、突如ウバカの魔術が発動した!
リスの呪いによって、極寒の氷柱が子オオカミの心臓に突き刺さり凍りつかせた。子オオカミの心は冷たくなった。他の動物と話す時、彼は悪口しか言わない、他の動物を悲しませるようなことしか言わない。
次第に彼は、全ての動物に嫌われるようになった。
それからというもの、森の全ての狼は彼の話をする時、必ずこんな言葉を口にする。
「ワォ~ワォ~本当に身勝手な狼、あの子が嫌いだ」
「ワォ~ワォ~そうよ、そうよ、本当に薄情な狼、誰もヤツに近づくな」
子オオカミは次々と仲間を失い、孤独になる。彼は森に嫌われ、仕方なく北境へと移った。
北境の吹雪が吹く氷原、普通の生き物では近づかない場所。けど凍りついた心を持つ子オオカミは、その極寒を恐れなかった。
それから彼はここに棲み着き、氷原で唯一の孤狼となった。

【このページの折り目に娘の字が書いてある。「おとうさん、でもウーバークァはどこにいったの?」】

◆第5巻
ある日、イノシシの姫は狼の話を知り、胸を痛めた。
そして姫は全ての臣民に聞いた、どうやったら子オオカミの心の中の氷柱を取り除き、元の善良さを取り戻せるかを。
その答えは、知恵のキツネと長生きの亀が知っていた――
「コンコンコン~真心と炎だけが毒悪の氷晶を溶かせる。コンコンコン~!」とキツネが言った。
「友情に犠牲はつきもの。犠牲の上に友情は成り立つ。悪いが、私は叫ばない」頼りになる亀じいはこう言った。
賢いイノシシ姫はすぐにその言葉の意味を理解した。彼女は涙を拭いて、二人の賢者に礼をした。
「ふん~ふん~ありがとう。二人に子オオカミのところに同行してもらいたいの。私たちの友情の誕生を見届けてくれるかしら」
キツネと亀は姫の言葉を聞いて喜んだ。そして、姫と共に北境へと向かう。

【このページの一番下に付箋がついている、どうやら本を読んだ子供の父親が何か書いたらしい。「亀じいは礼儀正しい、叫ばなかった」】

◆第6巻
そこで、姫と二人の智者は北にある極寒の地にやってきた。
辺り一面が氷と雪に包まれている。どんなに勇猛な獣でも、もしくは穴掘りが得意なイタチでも、この地では暖かな草むらも、新鮮な果実もみつけられないだろう。
あまりの寒さに、姫の体は震えた。だが、引き返す事なく、彼女は凍える風の中へと進んで行く。
賢い狐と頼れる亀は、骨を刺すような寒さに耐えきれず、姫にこう言った。
「コンコンコン~こんな寒くて危険な場所で冒険だなんて、王が知ったら心配する。帰ろうよ、コンコンコン~」
「その通り、吹雪はどんどん激しくなっていく……少し休み、風が止んでから進むんだ。悪いが、私は叫ばない。」
だが、辛抱強い姫は二人の提案通りにせず、極寒の中を進んで行くことを決めた。
何せ、失った友人を救い出すより大切なことはないのだから。
そうして一行は、足と爪が凍てつき、吐き出した息が氷る*まで歩き続けた。
氷山に流れる、氷の張った川のほとりで、姫は寒風を漂う妖精を見付けた。
古き知的な妖精は、雪山の上に住んでいた。彼女たちは実体はないが、強大な魔力を有する。
「ふん~ふん~あなたがここの主ですか?どうか吹雪から抜け出す道を案内してくれませんか?」
姫は礼儀正しく、感覚の無くなった足を震えながら話しかけた。
知恵の狐と頼れる亀じいも、期待の眼差しを妖精に向け、凍り付いた爪で雪の中を掻きまわした。
「フーフー」
妖精は軽やかな声で言った。
「いいよ。でもフーフー」
「お返しに、君たちの体力をもらうよ。君達が吹雪の中を進めば進む程、どんどんお腹が空いて、寒くなるからね。まあ、命の危険はないと思うけど……多分ねフーフー」
(クンクン。相手は吹雪の精霊だもの)と姫は思った。
(それに、国で最も賢くて、私を気にかけてくれる人達が側にいるわ。何があっても大丈夫よ!)
姫は躊躇う事なく、精霊の要求を受け入れた。賢い狐も頼りになる亀じいも、口を挟む隙がなかった。
「ふん~ふん~合理的な条件です!では、狼さんの所まで案内して下さい。」
そこで精霊は、凍える川の流氷に姿を変え、固く決意した姫を険しい雪山の反対側へと導いた……

◆第7巻
極寒の風を越えて、ついに姫は狼を見付けた。
子オオカミの全身は霜に覆われ、青い目は輝きを失っていた。彼は吠え方すら忘れてしまったようだ。
「ウォン~ウォン~お姉さんよく来てくれたな。ちょうど昼ごはんに困っていたところだ」
この言葉を聞いて、優しいイノシシの姫は思わず泣いてしまった。その涙で子オオカミの心の氷が少し溶ける。
「ウォン~お前、何で泣いてんだ?」
「うう~うう~お昼ごはんすら食べられないなんて、私の王国ではこんな悲惨な状況見たことないわ」
「だから、私は私の全てを犠牲にして、あなたのお腹を満たそうと思う、どう?」
子オオカミはその言葉を聞いて呆れた。
「ウォン~ウォン~お前正気か!俺の目の前で、そんなことを言うやつはいなかった!」
子オオカミは姫の目の中に光る決意を見た。彼の心の中の氷がひとつ割れる。
「違うわ。つまりーー」
「王国で最も賢くて、最もお世話になった二人の家族を犠牲にしてあなたのお腹を見たそうと思うの。私たちの友情のために!」
マズイと感じたキツネはすぐに逃げ出したが、子オオカミと姫に捕まった。亀じいはビビって甲羅に隠れている。
子オオカミと姫は雪の中で、珍味をいただいた。洞穴でたくさんのキノコを採り、コケ植物で火を起こし、亀スープを楽しんだ。
子オオカミは初めて分かち合った友情の楽しさを知った。心の中の氷がどんどん溶け、嬉しい涙となって溢れていく。
姫は子オオカミと手を繋いで、一緒に故郷へと戻ったのでした。

【最後のページにカードが挟まっており、そこには奇麗な字で何か書いてあった。「あなた、このおとぎ話の本は図書館に寄付した方がいいと思うわ」】

神霄折戟録

本文を読む

◆第1巻
――神々の膝元――
「私は朝廷勅使、金紫光禄将軍の未央だ! 道を開けろ!」
「金紫光禄は文官職だろ?」弥耳は考える前に、そう口に出した。
美央は顔を赤くして「こんな辺境の庶民に何が分かる!」と叫ぶ。
「ここ数年で官制が変わったのか?」
すると、佩刀(はいとう)した二人の武人が笑い出した。「はははは! 京の城を発つ関所も突破したのに、こんな辺鄙な所で足止めされるとはな」
店の小二は赤面の未央をじっと見つめ、急に手を叩いた。「あなたは男装した女官だろう!」
「兄ちゃん、いい目をしてるな」一人の武人が言う。「彼女の官位は尚儀彤史。私達は金吾と羽林から選ばれた武官だ。金紫光禄大夫の命を受け、邪剣を取りに来た」
「まあ、金紫光禄しょ……将軍は、あはは……偽物だけどな、朝廷勅使なのは本当だ」もう一人の若い武士も言った。

邪剣の事は、弥耳も聞いたことがある。伝説によると、五十六年前、空から鉄が降ってきた。この鉄は天に属する物だ。帝に献上せねばならない物にも関わらず、刀鍛冶の風爺さんが勝手にその鉄で剣を作った。それが九振りの邪剣だ。邪剣は人の心を操れるのだという。

「そういう事か」言いながら、弥耳は(かわや)の扉を閉めた。
「なんでもいいから、さっさと厠から出てきなさい!」男装を見破られた未央は、耐えきれず本音をこぼした。少し遠回しな言い方ではあったのだけれど。
「未央は女子の身。私達のように、草むらで用を済ませるわけにはいかない。早くしてやってくれ」

手を洗い厠から出た弥耳は、二人の武人と同じ席に着いた。
「こんな田舎の店で、朝廷官制に詳しい人に会えるなんてな」羽林の方の武人はしげしげと弥耳を見る。
「兄ちゃん何者だ?」
「父、米聴仁は元光禄寺卿だ。横領罪の罪をきせられ、官位を剥奪された」弥耳は顎を引っ掻く。「じじいと違って、俺はまだ朝廷に戻り、米家の雪辱を晴らす事を諦めていない」

◆第2巻
――修羅の戦場――
「うん、美味しい」
身体を乗っ取られた未央は、随分穏やかになったと同時に冷たくもなった。彼女は弥耳が作った餡入りの餅を、ちまちま食べ始めた。餅が熱かったのか、可愛らしくペロッと舌突き出し。口の中を覚ます*。
「すぐにはこの事実を受け入れられないな」神降ろしを維持するために、目を一つ代償として差し出した弥耳も、餅に手を伸ばす。「お前が言うには――」
「昔に落ちてきた鉄は神の矛で、人間がそれを折り、九振りの魔剣を作った。で、これがそのうちの一つである霧海魔剣。それに加え、やつは既に二振り手に入れていると……」
「そして、お前は?」
「私はかつての天帝の娘。名は忘れたわ。審判と断罪を司っている。あなた達の言葉では、刑律というのかしら」
光禄寺は祭事や式典を任されているため、儀式やら祝詞やらは暗唱できる程、父親から聞かされていた。
怪力乱心についても、弥耳は多少心得があった。神は真名を知られてしまうと、人間に使役されてしまう。目の前にいる人は、恐らく名を忘れているわけではない。

「つまり、朝廷は神の矛を復活させたいと言う事か?」弥耳はこの設定を受け入れる事にした。
「分からない。この体の持ち主は何も知らなかったみたい。彼女はただ……とても怒っているわ」未央はそっと胸に手を添えた。
「なら、次は何すればいい。適当な神送りの儀式で、お前を送り返せばいいのか?」弥耳は失った目を隠している包帯に触れる。「そしたら、俺の目も戻ってくるのか?」

「私に名前を付けて」少女は頭を上げた。口元には餅のカスが付いている。
「ふざけるな。文官殿試は帝が直々に審査するんだぞ。一つ目でどうやって光禄寺卿になるんだ?」
「私も絶対に、全ての矛の欠片を集めなきゃいけないの」少女は言う。「でなければ、この世界はいずれ燃え尽くしてしまうわ」
弥耳は答えずに、ただ目の前の少女を見ていた。
「命の危険があるから、私に着いて来なくていい。でも、あなたの目は暫く借りておくわ」

◆第3巻
――玄女征西――
「俺がお前にしてやれる事はこれ位しかない」弥耳は出来上がった料理を机に置くと、未央の反対側に座った。
先ほどの死闘で、未央は右腕を折った。今も包帯が巻かれている。未央は頬杖をついたまま、黙って自分を見ていた。
だが結局、未央は左手で箸を持ち、試しに汁物に入っている肉団子を掴もうとした。試みは失敗に終わる。
弥耳はため息を吐くと、箸を奪い取った。「仕方ない、食べさせてやる」
「私にしてやれる事はもっとあるわよ」何口か料理を頬張ると、未央は突如言った。いつも通り、感情は読み取れない。
「光禄寺の主は、お前達のような神々への奉納や祭事を任されている。お前の世話をするのが、俺の本職だ」
神々が争いを始めたら、俺達人間は眺める事しかできない。
後半部分は、口に出す必要もなかった。

「前に邪剣の持ち主とやり合った時、お前は矛とか剣を浮かせて操っていたじゃないか。その力で箸を使えよ」
「あれは、お父様に授けてもらった技よ。私しか使えないの。あれは断罪の最後に使う宣言と律令。適当に……」未央の声は明らかに震えていた。「適当に使うものじゃないわ」
「あいつが死ぬ前に、うちのじじいについて言ったことも胡散臭かったな」弥耳はつまらなさそうに、指を擦り合わせる。「『米光禄の身は潔白でも冤罪でもない』。一体どういう意味だ?」
もし、朝廷に神の矛を復活させる意図がないのであれば、未央に憑依している皇女の側にいるのは、朝廷に仇をなす事になる。
弥耳の考えを見抜いたのか、蝋燭に照らされた未央の顔が暗くなる。
「私の手助けをする必要はないわ。ただの人間が、朝廷を敵に回すのは得策ではない」
「黙れ。先にじじいを探し出して話を聞くぞ」弥耳が言った。
「あら……南にいる御父上に会いに行くの? なら明日はまず服と口紅を新調しに行かなきゃ」
「くそじじいに会いに行くだけだ。必要ないだろう」
「それがあなたの責務でしょう」珍しく未央は頑固だった。

◆第4巻
――山人の妙計――
このような状況では、恐らく法術の達人、大羅金仙でも打開できないだろう。
「この火界邪剣『白牛火宅諭品村正』は、神の火界である陀羅尼の欠片によって錬成された。姫様に分かるように説明すると、神王九界如尼の火界如尼だ」
なぜ西から来たこの武士は、神に匹敵する剣術が使えるのだ? 通常、邪剣に魅せられた者は、心を奪われ、己の事も学んだ武芸も忘れてしまう。
未央は斬られた肘を抑え、灼熱の空気を吸い込んだ。いつもなら、すぐに傷を治せるのだが、燃え尽きぬ炎が傷口を焼き続けているのだ。
出血のせいで、視界がかすみ始める。その時、自分を庇うようにして、弥耳が前に立った。
「色々聞きたい目をしているな。仕方ない、死ぬ前に教えてやろう。俺がお前の父親を殺したのは、奴が神王の復活を阻止しようとしていたからだ。俺がなぜ自我を失う事なく、火界如尼を使いこなせているかと言うと――」
東の武士は邪剣を持ち上げる。「俺は雲夢狩の天兵の化身だからだ」
言い伝えによると、天帝は阿修羅軍と戦うため、三つの世界から選出した戦士を死後に、天軍に命じた。
時折、湿地の天候が崩れたり、雷雲が空で渦巻くと、中洲人はそれを天帝軍が「雲夢狩」している最中だと言った。

「な、なぜだ!」武士は驚愕の目で、真っ二つになった邪剣を見つめる。その体は、肩から下に向かって大きく斬られていた。
混乱の中、弥耳は最後の悪足掻きをしようと、父から譲り受けた遺品を取り出した。だが、それがかつて世界を燃やし尽くした大魔剣「裂瓦丁」であった事を、知る由もなかったのだ。火界如尼が火界の奥儀なら、「裂瓦丁」は火界の不変真如だ。
世界を燃やし尽くしたせいで消えてしまった魔剣の炎が、火界如尼を飲み込み、再度燃え上がった。

「世界が、また燃やされるの……」呟き、未央は気を失った。

◆第5巻
――素女伝承――
「そなたのおかげで民が救われた、大義であった。」太子は手を背中に回し、跪いている弥耳の周りを一周する。
だが、弥耳はその言葉に特に何も感じなかった。
「神の矛を差し出せば、三十日後、光禄寺卿はそなたのものだ。ほしいなら、首輔の位も十年以内にやろう」太子が椅子に腰かける。「どうだ?」
「陛下から『楽にしていい』と言われておりませんので、お言葉を返すのは恐れ多い」
「それは、私に『楽にせよ』と言えと命令しているのか。だめだ……将来この国を統べる者と――」
「はぁ、ごちゃごちゃうるせぇな」弥耳は許可なく姿勢を変える。「朝廷の作法では、太子は万歳の礼ではなく、三拝礼でいいんだろう。お前がもうすぐ即位するから、その祝いとして先にやってやったの。偉そうにするな」
「お、お前!」
「なんだよ」弥耳は立ち上がる。「神の矛はお前に半分やる。火界陀羅尼は、親父に供えるよ。残党がまた何か企んでいるとまずいからな」
「そ、そうか。取り繕える物があるなら問題ない。今後、これが国に伝わる神器となるぞ。はははは」
弥耳は遠慮なく、太子の向かい側に座った。「俺達は同じ乳を吸った仲なのに、なぜお前だけこんなに間抜けなんだ!」
「なんだと! 米夫人が私の乳母じゃなかったら、今の発言――」
「光禄寺卿はやりたい奴にやらせろ。俺は帰る」
太子は言葉を詰まらせた。
「未央は?」弥耳は料理を取りながら、なんともない振りを装って聞いた。
「見事な働きだったからな、尚儀に昇格だ。彼女は父である金紫光禄大夫の陰謀とは無関係だったよ。太常と首輔から詳細についても聞かされた。悪いようにはしないさ」
聞いていて、変な感じがする。
でも、これでいいのだ……

あの人はもういない。無くなった目も戻ってきた。それなのに、今でも見えない体のどこかに、痛みを感じるのだ。

◆第6巻
――何もない――
「私が全てを託した娘よ。そなたを創り出したのは、私に矛を突き立てるためではないか」甦った神王は空高く浮かんでいる。雷と竜巻、そして稲妻が世界の王の復活を祝福していた。

だが少女はもう恐れなかった。幾千万年かけて創られた彼女は、この時のために存在していたからだ。
否――彼と過ごした時間が、彼女に勇気を与えていた。

九つの世界繋げ、崑崙を貫通した最初の聖なる予「エルミン」の複製品が、空を埋め尽くしていた。

神王は己の死後に起こる混乱を恐れて、最後の聖なる矛「断罪の皇女」を創り出した。そして彼女は今、完全体となったのだ。

(本の最後に編集長の後書きが記されている)

『神霄折戟録』は、稲妻の小説印刷社「八重党」が璃月文化を題材にした作品の初めての成功例です。全五巻はかなりいい結果を残し、文化には大きく貢献したと言っていいでしょう。売り上げも、六巻も出たのならもう皆さん分かりますよね。
六巻最後の怒涛の展開に、皆さんはきっとがっかりしたでしょう。
多分。

終わり方はまるで別の作品だったようですが、決して我々が迫九先生に新連載を強要した結果、先生の作風を乱したからではありません。先生がただ新しい自分にチャレンジしたかっただけなのです♡

もちろん、五巻までのファンの皆様の気持ちは痛いほど分かります。「黒の函」愛蔵版全五巻も制作中です。本屋で立ち読みしている子達も買ってね。そうだ。「断罪の皇女」のお話も、楽しみにしていて下さい。

八重編集長

砕夢奇珍

本文を読む

◆第1巻
――月光――
噂によると、町のどこかに風に忘れ去られた場所があるらしい。
噴水の前で、目を閉じたまま、心臓が35回跳ねるのを待つ。そして、時計回りに7周、反時計回りに7周し、目を開けると、ある小さな店に立っているのだ。

――――

「もしもし、誰かいませんか?」
ヴィーゴは怯えながら聞いてみた。
後ろのドアが勝手に閉まる。ドアに付いているベルが澄んだ音を鳴らし、薄暗く雑然とした部屋に響いた。
夕焼けの光が水晶みたいな窓から降り注いでいた。店の中には訳の分からないものがたくさん。彼女はそれらを避けながら店の奥へと進んだ。
店の中から返事が返ってくる事はなかった。
ヴィーゴは周りの物をしげしげと眺める。用途不明の機械部品、古いが華麗なライアー、難解な絵が彫られた瓦、傷だらけの古びた手かせ、忘れ去られた貴族の冠…
何の役にも立たなさそうな物を見ているうちに、いつの間にか、キツネのような細い目つきの店主が彼女の隣りに立っていた。
「それは、とある王狼の牙よ。今、氷雪に覆われたあの大地の過去を覚えているのは、この一本の牙と諸神だけかもしれない」
彼女は小さな声で話した。
「いらっしゃい。何か気に入ったものや、欲しいものはあった?」

「なんか、記憶を『忘却』させるようなものってある?」
「ええ、あるわよ。」
ヴィーゴは自分の胸に手を当て、まくしたてるように聞いた。
「とても、とても大切な人のことでも忘れられるの?」
キツネのような目つきの女店主が重々しく頷いた。
「知っているわよ、あなたが忘れようとしている少年は透き通る月光のような瞳の人。数年前に彼は消え、未だにあなたは彼のことを忘れられない。どんな人と出逢っても、彼の代わりになる人なんていなかった、どんな嬉しいことがあっても、月の光のように手からすり抜けてしまう」
ヴィーゴは驚き、ひたすら頷いた。
キツネ目はニヤリと笑い、どこからともなく酒を取り出した。
「これは苦痛を忘却させるお酒」
「氷の風が吹きすさんだ時代、人は生き残るために、雪の積もった土地でこのお酒を醸造していた。その後、人々は幸せな生活を送れるようになり、このお酒の醸造方法も忘れられてしまった」
彼女はボトルを揺らしてみせる。
「残りはもうそう多くない。これも何かの縁だから、タダでいいわ。もちろん、本当に望んでいるのなら……」
ヴィーゴはキツネ目から杯を受け取った。
杯には宝石がはめ込まれていたようだが、今は取り外されており、そのがらんとした様相が寂しそうに見えた――

――ヴィーゴは気がつくと、噴水の前にいた。
あれ?私、ここで何してたんだっけ?と考えながら、月の明かりの下、早足に家を目指す。日が暮れて辺りには深い闇、急いで帰らないといけない…
あの変わった店のことも、店への行き方も、そしてその中で起きたことも、何もかも忘れていた。

――――

「もう行ったわよ」
ドアに付いているベルが鳴り止み、キツネのような細い目つきの店主が言った。
透き通る月光のような瞳をした少年が、店の奥から現れた。
「助かったよ」
「これで何回目?」
「6……7回目」と答えた少年は、一瞬顔に疑問の色を浮かべて店主に聞いた。「あのお酒本当に効くの?信じてないわけじゃないけど、ただ――」
店主はハッキリと答えず、ただ笑った。
「これは苦痛を忘却させる。ただ、あなたたちの過去は彼女にとって苦痛ではないみたいね。このお酒は彼女のあなたへの想いと、あなたを失った悲しみを暫く忘れさせることしかできない」
「彼女は月の明かりを見るたびに、あなたの面影が浮かび、そして思い出すはず。バドルドー祭での出会いも、風立ちの地での出会いも、風立ちの地での出会いも、風立ちの地の木の下で一緒に過ごした午後も、誓いの岬で彼方を眺めたひと時も、そして仲夏の祭りから一緒に逃げた記憶も、吟遊詩人の集会で詩と羽のマントを送られたことも、彼女にとっては捨てられない思い出なんでしょう」
「……まあ、うちには本当に全てを忘れさせるお酒があるけど。あなたが望むなら、彼女にあげましょうか?」
彼女は少年を見て少し笑った。彼は一言も発さず、ただため息を吐く。

「そもそも、なぜそうまでして忘れさせようと?」
「ああ、これのせいだよ」
彼は胸ポケットから透き通る球体を取り出した。中にはある模様が浮かび上がっている。
「これを手にした人は、いつかこの世から消えていくそうだ」
「ならば、早いうちに。彼女がまだ若いうちに、僕のことを忘れて欲しい」
「なるほど」彼女は笑みを浮かべた。「あなたも選ばれた者なのね」
「しかし、選ばれた者が最後どうなるのか、知ってるか?」
少年は焦燥感を滲ませながら尋ねる。
彼女の顔が笑ったかのように見えた、だが答えは返ってこない。
「そろそろ僕も行くよ。これを手に入した*からには、なすべきことをなさないとね」
「もし、あの少女がまた来たらどうする?」
「……彼女自身が克服すべきことだ」
「情けない男ね」

◆第2巻
――玻璃――
噂によると、港町のどこかに山石と波音に忘却された場所があるらしい。
海風が吹く場所で、目を閉じたまま、街の喧噪に背を向けて49歩。そして心臓の鼓動しか聞こえなくなった時、目を開けると、ある小さな店に辿り着く。

――――

「もしもし、誰かいませんか?」兪安は声をかけた。
彼は店に入る。後ろのドアが閉まると共に、ドアに付いていたベルが澄んだ音を部屋に響かせた。
岸辺を打つ波の音が、思い出のように店内に響いていた。細長い店だ、見たことあるようでないものがたくさん並んでいる。兪安は自分よりも年上かもしれない埃が霓裳長衣につかないよう、注意しながら店内の品物を見て回った。
古くて黄ばんだ紙、巨大な魔獣の長い牙、漆黒の隕鉄、材質不明の黒金色をした立体の何か…
彼が白い粉の入ってるクリスタルボトルを手にした時、柔らかな声が聞こえた。
「それは、昔、ある魔神の涙で作られた塩よ――」
波のない水面を切り裂くような、深い静寂を破る一言、驚いた彼はボトルを落としてしまった。
だが、予想とは裏腹に辺りは無音。キツネのような目つきの店主がいつの間にかボトルを受け止め、棚に戻していた。

「私は……あれ、誰に紹介してもらったんだっけ?」
彼女は微かに頷き、彼の疑問を無視して続ける。
「いらっしゃい。何か気に入ったものや、欲しいものはあった?」
「プレゼントを探しているんだ、好きな人に……送るための」
「実は、近々プロポーズしようと思っているんだよ。だから、もし何か良い物があればいいなと」
兪安は緊張で唇をなめた。そして、石珀のような店主の金色の瞳と目が合った。
そのまましばらくすると、彼女は「わかった」と言い、

細長い姿が店の奥へと消えていった。
彼女が戻ってくると、その手は虹色に輝いていた。近づいてよく見てみると、そこには鳶型十面琉璃が一つ。
「『琉璃心』の伝説は、お客様も知ってるわね?」
知らないが、兪安は頷いた。
「人が作った琉璃は品質の悪い模造品にすぎない。本物の琉璃は夢を叶えるほど美しい。高貴な仙獣が死去し、その叶わぬ夢の悲しみからしか産まれない。見てごらん…」
キツネ目は兪安に琉璃の中を見せる。
数万年の歳月が彼の目の前を流れ、星と海と大地が雲のように変化した。雪原は緑地になり、野原は川に分断された。蟻の穴のように都市は興り、王国が積み木のように瓦解する――

――日が暮れていた。月光が海を照らしている。気がつけば、兪安は埠頭に向かっていた。
強く握りしめている硬い結晶には、血のような温もりが宿っている。
そうだ、これはあの奇妙な琉璃心だ、と彼は思い出した。月光の下、歩調を速める。これなら、これを渡せば、私は……私はきっと……

――――

ドアに付いているベルの澄んだ音が店内に響き渡った。
「いらっしゃい。何か気に入ったものや、欲しいものはある?」
「ひとつ売りたいものがあって……宝石かどうかよく分からないんですけど」
綺麗にカットされた結晶が、その輝きで店内を照らした。
「私と付き合いたいという人が、これをくれたんです。中を覗くと不思議な光景が見えるんだって」
「でもどうしてか、見ているだけで……気持ちが悪くなる。宝石は綺麗だけど、あの人からもらった物だと思うと、イライラしてしまう。だから、売りたくて」
「わかった、でもこれは高級な鳶型十面琉璃ね。いくらで売りたいのかしら?」
「お金には困っていないけど、えっと……これって、塩ですよね?そう言えば、そろそろ地中の塩に参拝する時期だったし、お代はこの塩でいいです」

――――

キツネのような目つきの店主は一人、店の奥に座りながら立体の琉璃をいじる。
「あなたを通じて、醜いものを見させてもらったわ。あいつの真心って本当に……不快」
「あの人は塩業界の首位である銀原会への婿入りを狙っていた、上へ登るために手段を選ばない卑怯者。でも、もしこの件がなくとも、互いに好意がなくとも、いつか幸せになれるでしょう。幸せを追い求めるのは人の性(さが)であり、愛があるかどうかは関係ないのだから」
彼女は一口酒を呑んで、自らを嘲笑した。
「でも、私はあんな人間が許せない」
「知らない人に真実の心を見せるのは楽なこと。だって、店を出れば、何の関わりもない赤の他人だから。少し見せたところで何ともない。でも親しい人であればあるほど、その裏に注意しなければならない。彼には予測できなかったのかしら……」

「ごめんなさい、危険な目に遭わせて。でも取り戻せてよかったわ」彼女は目を閉じる。「だって、これは、あなたが残してくれた心だから、大切にしないと……でも、たまにはこの世界を旅して、今の人間を見るのも面白いと思わない?」

◆第3巻
――青い宝石――
噂によると、町のどこかに風に忘れ去られた場所があるらしい。
広場の中央で目を閉じたまま、時計回りに7周と反時計回りに7周。そして前に14歩、風の中でさえずる鳥の鳴き声が消えたら、目を開ける。そうすると目の前に、ある小さな店が現れる。

――――

キツネのような細長い目つきの店主が窓を開けると、月の明かりが見えない星屑となり棚を照らした。
放蕩息子のように咲いた花も、埃だらけのバドルドーも、虫食いだらけで読めない本も、弦のない弓も、まるで旧貴族の広間のように無情な月光が銀色に染めた。

「よう。最近どう?」
軽薄な挨拶が店の奥から聞こえてきた。
店主が振り返る。月光の行き届かない暗いところに、よく知っている「お客さん」が彼女のソファに座っていた。

「まあまあよ。ただ窃盗の防犯対策をする必要があるみたい」
キツネ目の店主は微笑みながらそう言った。
「常連さんを追い出すつもりか?」
客人はため息を吐きながら、「あなたの店に私がほしそうな品がないんだ。あえて言えば…」

「じゃあ、獲物は?」
「なんだよ、盗品を処分しに来たとでも思ってるか?」
「狩人」はがっかりと言わんばかりの顔を見せたが、店主は思わず微笑んだ。
「もちろん違うわよ、あなたはあまり「処分」って言葉を使わないから」
「『譲渡』、『贈与』、『寄贈』、『寄付』……町を行き交う義賊として、あなたは慈善活動をたくさんしてきたでしょ」

「今回はそのために来たわけじゃないんだよ。あんたにあるものを『譲って欲しい』んだ……あの悲しい想いを、忘却させるお酒をね」
口調は軽かったが、義賊は誠実な笑みを見せた。

「残念、もうある人に買われたわ」
いつの間にか、こっそりと懐に入れていた酒のボトルを店主に取られる。
「ここのすべての商品は、すでに買う人が決まっているの。未来のある時点でもう買われてしまった」
「あんたの方が一枚上手か、みっともねぇな」
義賊は苦笑した。
「黄金よりも想いの方が重いと最近気がついた。俺みたいな屋根の上を飛び交う仕事をするやつは……意味のない想いを……重さを減らすべきだ」
「……青い宝石のような瞳を持つ彼女は、この重みを感じているだろうか?」

――――

チリン、と鳴ったベルの音で店主は目を覚ました。
その来客者は長槍を持っていた、長槍のように凛とした碧眼の魔女だ。顔には貴族の罪印が刻まれている。
彼女は雑然とした店内を無視し、心を貫く剣のように店主のもとへと真っ直ぐ進んできた。

「いらっしゃい。何か気に入ったものや、欲しいものはあった?」
「物を売りたい」
砕けた氷のような声と共に、魔女は大きな青い水晶をカウンターに置いた。
「ある盗賊が、貴族の銀盃からこれを盗んだ。私はこれを彼から貰ったせいで、我が主に罰せられた」
「でも、それももう数年前のこと。時の流れと共に恨みと彼に会いたいという気持ちは消えるものだと思っていた、けど……」

「では、その宝物をいくらで売りたいのかしら?」
魔女は食器棚に目をやると、そこにある宝石の抜き取られた貴族の銀盃を指さした。
キツネ目が宝石をいじる、宝石の輝きが店内を照らした。
「分かったわ、あなたがそう望むなら……」

心が動揺すれば、報われない結末を恐れ、心に恐怖というヒビが生じる。
そして死は恐怖と共に、湿気のように骨の髄まで染み込む。
大勢の人が死の直前、ついぞ己の弱さが露見したことに気づく。

キツネのような細長い目を大きく見開き、店主は青い水晶を月光に向けて、旧貴族の記憶を鑑賞した。
伝説によると、ある特定の時間に澄んだ宝石に目を通すことで、過去、未来、あるいは人の心を見抜くことができると言われている。世界のどこかに海のように広い蒲公英の野原があり、空には3つの月が浮かんでいる、それぞれの名前はエリア、サンナタ、カノン。その三姉妹はある災いにより死別する。その死を直視した魔女が心の隙により命を落とすも、逃亡した賊は魔女との再会をずっと待ち望んでいた。
この宝物を捨てても、その伝説が消えることはない。過去を覆すことはできないと彼女はよく分かっているから。
ならば、その伝説と物語を自分の店へと収めるべきなのだろう。

◆第4巻
――石の心――
噂によると、港町のどこかに山石と波音に忘却された場所があるらしい。
海風が吹く場所で、目を閉じたまま、街の喧噪に背を向けて49歩。そして心臓の鼓動しか聞こえなくなった時、目を開けると、ある小さな店に辿り着く。

――――

「もしもし、誰かいませんか?」そう声をかけながらドアを叩いたのは蓑を着た男。
ドアに備え付けられた古い窓を通して、店に陳列している商品を見る――煌々と光る星屑のようなものが詰められた瓶、氷のようにキラキラと輝く断刃、古い年月を感じさせる絵巻物、変わった色の丹薬、霜が付いた瓦……
男が店に入ると、ドアが勝手に閉まった。
男はカウンターの前まで行き、まるでこの世の物ではないような不思議な品々を見ていると、優しい女の声が聞こえてきた。
「いらっしゃい。何か気に入ったものや、欲しいものはあった?」

男は驚いた。振り向くと、キツネのような目つきの店主がこちらを見て笑っていた。
「ああ、その、誓約の証となるような物が欲しいんだ。昔、仲違いした人と和解するために」
男は咳払いをした。彼の声は見た目とは裏腹に謹み深い感じがする。
「そう?分かったわ……」
キツネ目の金色の双眸が、濡れた蓑姿の男を上から下へと見て頷いた。
店主は身をかがめて何かを探し始める。そして、彼女は箱の中から精巧な石珀をひとつ取り出した。

石珀は店主の手の中で淡い金色の光を発している、まるで彼女の瞳みたいだ。
男は石珀を受け取り、月の光の下でまじまじと見た。夜の光に透け、温かな金色の奥には何か深遠なる嵐が隠れているかのようだった。
それを持つ手が震えた。

「石珀とは、岩の心よ。長い年月の中で変化が起こり、例え硬い岩石であろうとも、不純物のない澄んだ心に凝縮される」
店主の声はまるで遥か遠くから聞こえてくるみたいで、男は微かに頷くだけであった。
「まさに、私が欲していたものだ」
男は低い声で答えた。モラがいっぱい入った重そうな袋をレジに置き、すぐに店を出ていく。夜の雨に紛れ、男は姿を消した。

――――

「事情はこんな感じ」
話が終わると、キツネのような目を細め、目の前のお客さんをじっと見る。
「他には何も言ってなかった?」
鉱夫らしき若者は焦りを隠さず聞いてきたが、店主は黙って頭を横に振った。
「一袋のモラを残していった。袋に血痕がついてたわね」
店主の声は水のように穏やかで冷たかった。

「まさに、私が欲していたものだ」
若者はほっと胸を撫で下ろし、店主の金色のキツネ目から逃れようと視線を逸らした。
「代わりに、物語をひとつお話ししましょう」
そう言う若者に店主は頷き、話を続けるよう促した。
「昔、蓑を着たあの男と一緒に山へ登って、鉱石を採掘したんだ。私は出世のためで、彼は家族のためだった……」
「そして、ある嵐の夜、私たちは一枚の岩石を砕いて、あの石珀を発見した。あの透き通る金色の輝きは、絶雲の間から見るどの景色よりも美しかった……」
「埠頭に戻ったら、報酬を折半する約束をした。だがあの夜、降りしきる大雨の音に紛れ、私は彼をあの山で永眠させた……」
「怖かった、彼を信用できなかったんだ。仙人の耳にしか届かない、薄っぺらな口約束を信用できなかった」
「だから、恐怖心が勝ってしまった……他人を信用するリスクを冒すより、血にまみれたお金の方が魅力的だった……」

「翌朝、ロープで山を下りようとした。4歩、5歩、6歩と足を岩に置いていった。その時、嫌な予感が手の平から伝わってきてね……」
「上を見上げた時には、もう遅かった――」
「最後に目にしたのは、切られたロープの断面……」
「あの切り口は、狩猟刀によるものだった」

「ということは、これで清算されたわけね」
キツネ目の店主は、相手に気付かれぬよう微笑んだ。
「彼は石珀を手にし、あなたは全額支払った」
若者は何も言わず立ち尽くしていた。

――――

伝説によると石珀は岩の心らしい。力のある岩であるほど、人の心を映し出す。
石の持ち主が亡くなっても、心が通じた石珀であれば持ち主の欲望と悔恨を現世に呼び戻し、能ある者に解決をしてもらうそうだ。
あくまで伝説ではあるが。
奇怪な客が店を出て行ってから2時間経った。だが、今も雨は降り続いている。
キツネ目の店主は窓辺に立ち、霧雨が降る街の、路地の奥を眺めた。
「でも……彼らは本当に解放されたのかしら?」
雨に向かって、彼女は答えのない質問をした。

犬と二分の一

本文を読む

◆第1巻
周知のとおり、ローレンスは悪名高い大貴族の家庭で生まれた。
貴族たちは仕事をせず、毎日民を圧搾して贅沢な生活をしていた。
暴政、淫乱、圧搾、悪行……貴族の諸行は筆舌に尽くし難かった。
群衆は貴族の貪婪に不満を抱えていたが、だれも口にする勇気はなかった。

ディートリッヒは貴族の坊ちゃんである。
しかし、悪行をするには、彼はまだ若かった。それに、彼の剣術も貴族の中でかなりの腕前である。
どうしても粗探しをすれば、それは彼の悪い性格と自己中心すぎる点だろう。だが、それは貴族様たちの通弊でもあるため、大したことではなかった。
しかし、彼の名字――ローレンスは、彼を自然と悪党という分類に入れた。

そして今、その悪党坊ちゃんは人生初の悪行を行おうとしている。
先前、ディートリッヒは大魔導师*の元素原論授業をサボり、城の外で遊ぼうとしたが、庶民街を通りかかった時に金髪碧眼の少女に出会った。
ディートリッヒはあの一瞬の気持ちをうまく言葉にすることができなかった。ただ、心臓が飛び出るように鼓動し、かき消せないほど大きな音がしたことしか分からなかった。
「たぶん、お母様が猫に対して抱く感情と一緒だね。」
ディートリッヒはそう自分を慰めながら、思わず少女の後をついていった。

しかし残念ながら、この庶民の少女はディートリッヒが身を明かした後も、彼に索然とした態度を見せていた。
ゆえに彼は、真夜中にこの物知らずの庶民に教訓を与えることを計画した。

「捕まえたらケージに閉じ込めよう!お母様が言う事を聞かない猫たちに対してするように。」

◆第2巻
庶民の少女が城に訪れたのは、ある日差しのいい午後だった。彼女の金髪はまるで春のお日様らしく、その煌めく青色の瞳は、透き通った湖のようであった。このような可憐な姿をした少女が、どうやって魔物を避けて城まで辿り着いたのかはだれも知らない。

「不審者扱いするのは、彼女の美貌への侮辱だ!」
酔っぱらった兵士が群衆の中に混ざってはしゃいだ。彼は今日の門番で一晩中飲める酒代を儲けていた。
「お前はあの女の美貌に騙されただけだ!」
隣にいる連れが彼の本音をあばきだした。
「ちげぇ!俺がそんな猥らな人に見えるのか?俺はこれに騙されたんだよ!」
兵士は手に持った銭袋を連れに見せた。
「やるじゃないか!よし、今日はお前の奢りだ!」
「いいぞ、奢ってやる!一杯飲んだだけで倒れるなよ!」
……

そんなわけで、このノッティと名乗る学者は無事に城に落ち着いたのであった。
ノッティは優しくて落ち着きのある声で話してくる。いつの間にか巷では、ノッティと話すといい夢を見るという噂が広まっていた。
その噂以外に、少女の到来で変わったことは何もなかった。民に大きな影響を与えているのは生活の苦難だけでなく、貴族からの搾取もあるからだ。

「やれやれ、もっと簡単なことだと思っていたが、こんなふうになっていたとは……」
ほの暗い部屋の中、ノッティは机の前に座っていた。頬杖を突き、指に何かを巻きつけているようだった。彼女の声は呪文を唱えているかのように、人の心を動かした。

◆第3巻
夜。
遠くからかすかに野獣が吠える音が聞こえる。狼のようだ。
ノッティはベットに座り、袖をめくりあげた。布で隠されていた腕には、白骨の蛇の模様をした腕輪が巻かれていた。
蛇の頭はまるで生きているかのように、凄まじい牙をむき出しにしていた。
蛇の体は彼女の腕に纏い、魔法ランプの灯りの下、恐ろしい気配を醸し出す。
「ディアシスター、お休み。」
ノッティは腕輪を撫でた。その様子はまるで蛇と遊んでいるようだった。
暫くすると、魔法ランプの灯りが消え、部屋の中は暗闇に包まれた。

闇夜はノッティに無限の力を与える。
そのため、部屋に見知らぬ気配が入った瞬間、ノッティはそれに気づいた。
彼女は、ディートリッヒが暗い中こそこそと戸惑う姿を、すべて目にしたのである。
今のノッティにとって、笑いをこらえるのは大規模の催眠術より難しいだろう。ディートリッヒがすぐ目の前まで来てくれて助かったと、ノッティはそう思った。

ディートリッヒはようやく彼を狂わせたその瞳を見ることができた。
けれども、白日の浅い湖のような色と違い、今のノッティは夜のせいか、深海のように沈んだ目をしていた。

「これを全部飲んで。」
この一言がディートリッヒが意識を失う前に聞いた最後の一言であった。

◆第4巻
杯が床に落ち、ディートリッヒは倒れた。
ノッティはそんなディートリッヒの腰から彼の剣を抜き出した。
柄を掴んで放すと、嵌まっていた黒く光る宝石が彼女の掌に落ちた。

「わざわざ永夜の目を届けてくれるなんて、感謝するわ。」
話が終わると彼女は腕から蛇の腕輪を取り、宝石を蛇の口に投げ込んだ。
鱗と血肉が白骨から噴出し、暫くすると小さな黒蛇がノッティの手から床に落ちた。それはますます大きくなり、最後には黒鱗赤眼の大蛇に変化して部屋のほとんどを占領していた。
ノッティが手を伸ばすと、魔法ランプはまた光り、大蛇も再び縮まって彼女の腕に戻った。

「ん?もしかして隠れた?」
ノッティはベッドの下を調べた。
すると、ベッドの下にあったのは──
一匹の犬だった。
さっきの大蛇に驚いたのか、犬はひどく震えていた。

「あら、あなたを狼に変えようと思ったんだけど、犬になっちゃった。ごめんね!」
謝っているみたいだったが、ノッティの口ぶりからそんな雰囲気を感じることは少しもなかった。

ディートリッヒはまだ何が起こったのか分からないまま、ただ本能に従ってベッドの下に隠れていただけだった。
ノッティの話を聞いてようやく気づいた彼は、何か話をしたかった。しかしいくら力を入れても、「ワンワン」という声しか出なかった。
自分の声にびっくりしたディートリッヒは、慌てながらベッドの下から出た。

いくら鏡の前でもがいても、この貴族の坊ちゃんが元に戻ることはないだろう。
ディートリッヒはノッティに牙を見せて威嚇しようとした。しかし、ノッティがただ彼を見ただけで、彼の動きは封じられた。

「レディに対する態度じゃないわね。そのまま逃がすつもりだったけど……どうやら、君にお仕置きが必要ね!」

◆第5巻
「改めて自己紹介する。私はノットフリガだ。そうだね、君たちにとっては別の名前で紹介した方がいいかも。あいつらは私を『暗夜の魔女』って呼ぶの。」
ノットフリガがそう話すと、彼女の金髪は徐々に暗くなり、夜色と一体になった。青空のような瞳も黒夜を迎え、漆黒の色に染まった。

「今から、私があなたの主よ。当然、あなたは私が責任を持ってしつけを教えるわ。」
ノットフリガは体をしゃがめ、ディートリッヒに出処知らずの首輪をつけた。首輪はどんどんディートリッヒの首の大きさまで縮まった。いくら彼が暴れようとその首輪が動くことはなかった。

「ふぅ、ずいぶん時間を無駄にしたわ。早く城から出ましょう。」
そう言ったノットフリガは城外に向かって歩きだした。ディートリッヒは全身の力を振り絞り、貴族荘園の方向へ逃げようとした。しかし、首輪の不思議な力により、彼はノットフリガに逆らうことはできなかった。

ノットフリガは嫌がるディートリッヒを見て、指で髪を巻き上げた。
「君が足掻くのを見るのは面白いけど、結構うるさいわね。新しく開発した『静寂の夜』っていう魔法があるんだけど、それを私に使わせたくなければもう吠えるのはやめることね。」
すると、世界が一瞬で静かになったような気がした。直感からすぐに分かった、絶対に彼女の実験対象になってはいけないと。

◆第6巻
ディートリッヒはローレンス一族の崩壊を見た。
母親が飼っていた猫はとっくに行方が分からなくなっていた。気が狂った父とヒステリックな母は彼の近くにいたようだったが、彼がどう呼んでも返事はなかった。

「ワン…」
ディートリッヒが下を向いた途端、地面が突然壊れ、老魔女の様な手が地面から突き上がり、彼の首を強く締めた。
ただ落下している事しか感じず、最後は老魔女の隣に転び倒れた。
おかしい、特に痛くはなかった。

首輪に何か掛けられ、ディートリッヒは丸ごと上に引っ張られた。
視界は殆ど真っ暗で、足元だけが見えた。そこは黒い謎の液体が泡を立て、クモの糸と毒蛇の骨のような固体物がある熱い鍋だった…
ノットフリガの声が聞こえた:「ああ、やっとこれで材料がそろった。お前を入れれば私の不老不死のスープは完成だ。ハハハ!」

「ワンワンワン!」クソばばぁめ、俺を放せ!
ディートリッヒは必死に足掻く。すると、固いはずだった首輪が簡単に解け――
「ワン――」
彼は落ちた…
何も聞こえなくなった。聞こえるのは、風の唸り声とノットフリガのイカれた笑い声だけだった。

◆第7巻
「起きて――」
体が揺さぶられているようにディートリッヒは感じた。
「大丈夫?」
人の手が伸びてきた、息があるか、確かめられているようだ。
聞き慣れた声だ…
春風のように優しく、太陽のように温かかった。

ディートリッヒは目を開けた、そこに居たのは――
金髪で青い瞳の少女。
「良かった、やっと目が覚めたんだね。」少女は笑顔で言った。

「ここは…まさか…天空の島なのか?」
「違うよ、ただの普通の森だよ。」
ディートリッヒは気を取り戻した。目の前の少女は――卑劣な老魔女ノットフリガだった!全身が震え始め、すぐさま後ろへ跳んで距離を開き、警戒姿勢を保った。

「落ち着きな、傷つけるわけじゃないから。ああ、そうだ、まだ自己紹介をしていなかった。マダリーネだ、ほら、あのノットフリガの妹だよ」マダリーネは言いながら、背後の指を動かした――光魔法の安神の術だ。そして、ディートリッヒに近づき、こう言った「よしよし、これで良しっと。」

ディートリッヒはやっと静かになり、目の前の少女がなぜ自分の言うことを理解できるのか訊きたかったが、彼は「ワンワン」と叫ぶ事しかできなかった。
「うーん?こんなの小さな呪文一つで十分だよ。お姉ちゃんもできるよ。」
「ワン、ワンワン!?」ということは、あの老魔女は言葉が分からないふりをして、俺を弄んだのか!?
「うーん、でも姉は実は優しい人なんだ。」ノットフリガの事になると、マダリーネは再び笑顔を浮かべた。
「…」

◆第8巻
「魔女というのは知能と引き換えに強力な魔法を得るのか?全く言葉が通じない…」と、ブツブツ喋る金髪の少女の後に付きながら、ディートリッヒはそう思った。
「まぁ、そんなこと言わない!姉が聞いたらきっと怒るよ。」マダリーネはディートリッヒに向けて頭を下げ、声がだんだんと小さくなった。
「ワンワンワン?」それなら、彼女に言わなければいいだろ。待てよ、何で考えている事がわかるんだ?
「残、念、もう、間に、合わ、ない。」

ディートリッヒは驚いて上を向き、気圧が急上昇する方向を眺めた――
確かに見た目は変わっていないが…
しかし…
目の前にいる少女が既に別人である事を確信した。
「先ほどの悪夢は、ある程度効果が出たようだ。まぁ、まだ私の期待値とかなり遠いが。」いつも通りの傲慢で無関心な口調。確かにノットフリガだ。
「じゃあ、『心鬼の髄』はとりあえずお前の所に預けておく。」

「心鬼の髄」って何なんだ…
待って、マダリーネも言ってた気が…
「怖がる必要はない。先ほどの悪夢はすべて偽物だ。『心鬼の髄』は恐怖を誘発する物。姉がそれを君の体の中に入れたから、一番怖い夢を見たのだろう。」
「でも確かに姉は君の為にやったんだ、何せよ、姉はとても優しい人だから。」

ディートリッヒは全身に鳥肌が立った。ノットフリガをちらっと見たが、もう怖くて何も考えたくなくなった。
「私の教えは役に立ったようだ。じゃあ引き続き進もう。」ディートリッヒの怯える姿は、魔女を喜ばせた。

◆第9巻
ここは何もない辺境の森、薄くかかった霧が林の中を漂う。糸のような光が木の枝を通り抜け、緑の大地を照らしていた。
その時、マダリーネは犬を抱えていた――そう、ディートリッヒである。金髪の少女は、優雅な白鳥のように、絡み合った巨樹の根を踏みながら、森の中を歩いて行った。

「マダリーネでよかった。もしノットフリガだったら、俺を自分で歩かせるに違いない。それどころか、魔法で俺を走らせるかもしれない。ところで、この道は犬が歩くような道じゃない、いや、人間でも歩けないだろう。そもそも道がない、ほとんど木だ…はぁ、マダリーネが抱えてくれて本当によかった…」ディートリッヒはそう思いながら、振り返ってマダリーネを見た。

朝日が少女の顔に降り注ぐ。貴族の女性にも負けない美貌。色白な肌と優しい瞳は、彼女を花びらの上にある朝露のようにか弱く見せた。
「マダリーネの肌は本当に白いな…今まで見てきたすべての貴族よりも…」ディートリッヒは少女を見ながらそう思った。

「一つ君に教えよう。実はね、私はもう死んでるんだ。」マダリーネは突然そう言った。

◆第10巻
昔々、ある魔女が双子の娘を生んだ。
魔女の家系は同時に二人の後継を残せない。これは強い魔力を得るための代償だ。
だがこの魔女は黒魔法を極めた。自分の生命力を生贄に、二人の子供を守った。

しかし、魔女の生命力が尽きた時、別れが訪れた。
魔女は永遠に解放されたが、生き残った姉のノットフリガがすべてを背負うことになった。妹のマダリーネが生きられなかったのは自分のせいだと思った。
ノットフリガは魔女の黒魔術の才能を継承していた。彼女は自身を入れ物として、複雑な魔法陣や難解な呪文を用いて、マダリーネの魂を抽出した。
そして、高塔に残された魔女の書簡をすべて読んで、黒魔法と錬金術を駆使して体を作り出した。けれど魂を新しい体にいれて復活させるのは、光魔法の禁術の中でも難しい部類に入る。ましてやノットフリガは光魔法について何も知らない。
ノットフリガがマダリーネに対する執着が実を結び、ついに解決法を見つけた。彼女は作った体を蛇の腕輪に変形させ、冒険の旅に出た。

「私のかわいい妹、これが終わったら、私たちはずっと一緒にいられる……」

◆第11巻
最後の光が消え、闇が森を覆おうとした。
「お姉ちゃんの番だよ」
マダリーネがいきなり腕の中のディートリッヒを下ろした。
「そうだ、もう一つプレゼントをあげよう。お姉ちゃんもきっと喜ぶ」
少女の指の隙間から光が滲み出て、徐々に眩しい光のかたまりになった。マダリーネが光魔法を発動したのだ。
「はい、いい子にしてるのよ。しー、何も喋らないで」
「何だよ、勿体ぶって……うむっ」ディートリッヒが状況を理解できず、小声でつぶやいたが、細い手がディートリッヒの口を握った。
一瞬にして、口の中に入れ替わった少女に何かを入れられた。
「これは――」
剣の柄だ、彼の剣の。
かつて彼の腰にさげた剣。
「!?」
ディートリッヒが何か喋ろうとして、本能的に口を開けようとした。

「死にたくなければ、しっかり咥えておけ」ノットフリガが虚空に向かって手をのばす。ディートリッヒは首輸がキツく締めるのを感じて、仕方なく歯を食いしばった。

「いいか、その剣で自分の身を守れ。無能なお坊ちゃんだけど、ここで死なれたら困るんだから――」ノットフリガはディートリッヒを頭を持ち上げて、低い声で言った、「まだ教えることもあるからね。簡単
に死なれたら、私の楽しみが減るもの」
暗夜の魔女様がそう言うと、手を引っ込めて、コートを正した。
首輪が元通りにゆるくなり、空気が鼻や牙の隙間から一気に肺に送り込まれた。ディートリッヒは口を開けることができなくて、鼻で必死に呼吸を整えた。

程なくして、遠くから騒がしい音がした――

白姫と六人の小人■

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◆第1巻
昔々、遥か遠い夜ノ国、夜母は全ての臣民を統治していた。夜ノ国は死んだように静寂な土地であった。そこの大地は光を浴びられず、植物もない。暗闇に潜む醜い造物以外、生き物は夜ノ国に存在しなかった。
夜母は全ての罪悪の根源で、そして夜ノ国はまさしく夜母から流出した汚水のようであった。冷酷非情の夜母は口も心もなかったが、常に目を大きく見開き、夜ノ国を観察し、そして前触れもなく兆しのない残忍な懲戒を下す。彼女が唯一許さないのは重なった雲から漏れてきた月の光である。よそから来た、重なった黒壁を突き抜けた光が憎いから。
月光の森が唯一、夜母の統治から逃れた国であった。ここでだけ、人々は皎潔(こうけつ)な月光が見られ、月光が生き物にもたらした恵みを感じられるという。月光の森王国の人は肌が白く、淡色の髪と薄青色の瞳を持つ。太陽の光を浴びられずにいたことが原因なのかもしれない。しかし、月光の潤いによって、彼らは森の外の醜い造物とは全く違う。

◆第2巻
――サブタイトル――

◆第3巻
――サブタイトル――

◆第4巻
――サブタイトル――

◆第5巻
――サブタイトル――

◆第6巻
――サブタイトル――

◆第7巻
――サブタイトル――

荒山孤剣録

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◆第1巻
夜空を切り裂けた剣の閃きは星月の光さえ奪い去る。
荒山に冷たく風の音が立ち、剣と共に舞い上がった。

風雨が止んだ。田舎の道を歩いていたのは一人だけであった。

ちぢれ髪に鷹の鼻と梟の目をした彼は人とは思えない様子をしていた。ふらふらと、細い体で足を運ぶ姿は病膏肓に入る病人のようであった。この山奥においては人間よりもお化けといったほうが相応しい。

彼は三日間何も口にせず、休憩もなく道を歩いた。

三日前、彼にはまだ名声と名剣と落ちぶれた道場があった。けれども今の彼には憂鬱と悲しみだけが、雨と共に彼の額に落ちてくるだけだった。

三日前、無名の剣士が彼の師匠と妹弟子を殺し、高山の雪を真っ赤に染めた。

今、彼は新たな名前を手に入れた――金七十二郎。
同門の七十二人の中で生き残ったのは彼一人だけであった。

――――――

どれくらい歩いたのか、後ろから車の音がした。

金七十二郎は身を横に傾け、車に話かけた。「屠毘荘への車か?」

車夫は頭を頷き、「ここの車はほとんどが屠毘荘を通りかかるだろう。」と言い返した。

金七十二郎はまた聞く。「ならば、そなたの車に人は乗れるか?」

車夫は彼に答えた。「乗れるが、お前を乗せるつもりはないね。」

金七十二郎は車夫の言葉が理解できなかった。「どうせ同じ方向なのに、どうして俺を乗せるのはだめなんだ?」

車夫は言った。「お前と儂を一緒にするな。」

「だまれ。」

金七十二郎の声が聞こえると、車夫はあがく間もなく剣光と共に車から落ち、息耐えた。

金七十二郎という男はまさにこうであった。すべてを失い、度胸まで縮んだが、それでも、彼は繰り言が大嫌いだった。

血にまみれた車に乗り、金七十二郎は屠毘荘へ向かった。

◆第2巻
遠い冥思の国で、「屠毘」は幻を解けて、真実に向き合うことを意味する。

屠毘荘は荒山の下にある。ただ一本の道のみ外の世界と繋がっていた――それが金七十二郎が通ってきた道であった。

曇天の下、風が吹き荒ぶ。

仇ができるまで、金七十二郎と屠毘荘の間にはなんの因縁もなかった。

車が荒山の麓についた頃、空はすでに真っ暗になり、黒雲が月を覆い隠していた。金七十二郎も自分の身と心を暗闇に溶け込ませた。

暗闇の中、月の光が荘主を照らしていた。屠毘荘はそれほど大きくはないが、その荘主は決してただ者ではない。荘にいる人たちは荘主の名前を聞く勇気すらなかった。

彼らが知っているのは、荘主が背負っている血の仇とその真っ赤に染まった瞳だけであった。

彼の目は真っ赤に鋭く光っていた。まるで細長い剣のように、人の心を刺すようだった。
彼の人柄もその目のように、いつでも他人を刺し殺せる槍のようであった。

「時間だ。」
荘主は独り言を言った。坊主頭の上には月の光が踊っているようだった。

屋敷の外、一匹の悪鬼が剣を振り荘主の手下たちを切っていた。
屠毘荘は悪の群れが集まる場所であるが、各流派の掟で誰も軽率に争うことができなかった。
しかし、金七十二郎はすでに自分の流派を失っている。掟の縛りを受けない彼は渇いた鬼のように、剣を持って仇の血を求めた。

殺気を纏った風雨が鬼の血を洗い落ちると、すぐにまた血の色になった。

緋色の剣客が緋色の雨の中を歩いた。その体はもう傷だらけになっていたが、彼を防げる者はいなかった。

血の匂いがすべて雨で洗われ、剣客は重い足を運んで荘主の屋敷へ向かった。

――――――

外の殺気がだんだん静まると、荘主は手に持った酒を空中にまいた――
殺気と共にやってきた古い付き合いを祭るためか、あるいは己の汚い魂を祭るためか。

扉から誰か入ってきた。金七十二郎だ。彼は血の匂いにまみれた緋色の姿をしていた。

「荘主、聞きたいことがある。」

「お前はすいぶんと荘にいる人を殺したな。」

「多からず少なからず、ぴったり三百六十二人だ。」

荘主は何も言い返さなかったが、そのこめかみに浮かんだ青筋は彼の反応を表していた。

「お、それに犬一匹。」

そう言った途端、緋色の影は荘主の前に何かを投げ捨てた。
それは番犬の骨であった。長時間煮たかのように、骨はきれいになっていた。

この一時間で、金七十二郎は荘にいる三百六十二人を殺しただけではなく、番犬まで煮込んでいた。

何と残酷な!
何と冷血な!

荘主は嘆き、剣を持って彼に向かった。

◆第3巻
雨は止んだが、空はまだ曇ったまま。

金七十二郎は荘主から仇の情報を聞き出した。
そして今、屠毘荘には主のいない空っぽの家と怨念しか残されていない。

いや、この世に幽霊なんていないだろう。
これは元素力がない世界、
当然、亡者の記憶が元素の共鳴を借りて蘇ることもないのだ。

荘主はなかなかの相手であった。彼の剣は鋭くて早かった。金七十二郎の体にはいくつかの深い傷ができていた。
しかし残念ながら、彼の心は遅すぎた。

これは元素力がない世界、
当然、剣法にも元素の加護はない。
剣客は元素ではなく、ただ体力で戦うしかない。
腕を指のように、心を目のように使うのはこの世界で「剣」を使うコツなのだ。
荘主はいい剣客であったが、「心」の重要性を分かっていなかった。

金七十二郎は持っていた欠けた香炉を捨て、重傷になった荘主に向かっていった。

剣客に向かって攻撃することだけに注意力を注いでいた荘主は、相手の左手から繰り出される攻撃に気がつかなかった。

電光石火の刹那、屠毘荘の荘主は香炉に打たれ何回か転り壁にぶつかった。

「卑怯者…」

血まみれの悪党は何も言わなかった。荘主に応えたは風の音のみ。

「…お前が探している者は、この後ろの荒山にいる…自ら死を求めるとはな…」

悪党は去り、彼に応えたは風の音と…

山火事が起きる音だけであった。

◆第4巻
虹が消えた頃に、金七十二郎はようやく屠毘荘を出て山へ向かった。
昔の伝説によると、この「荒山」は天帝の刃で切り立てられ、険しい絶壁になっていた。
荒山に地母の涙が沁みているため生物が成長しないという話が民の間で流れていた。

荒山はかつて金に溢れた鉱山で有名だったが、地震でそれらが破壊され、無数の労働者が亡くなった。
それ以降、荒山は猛獣と賊どもに占拠され、誰一人もう一度採掘しようとは思わなかった。

その猛獣と賊の中に、金七十二郎の仇がいた。
剣客は肩を傾け、おぼつかない足どりで歩いていた。この前に屠毘荘主から受けた傷が彼を苦しめた。

この山の奥で自分を獲物として狙う者がいると剣客は知っていた。
長年血にまみれて生きてきた金七十二郎は鋭い勘をもっていた。

一見何もないように見えるが、荒山はすでに金七十二郎に大きい罠を仕掛けていた。
闇に隠れた賊は彼が薄暗いトンネル、或いは崩れた坑道を通過する時に、後ろから彼を襲うことを企んだ。

しかし実際のところ、この荒山だけでも、彼を葬るには十分であった。
傷を負った金七十二郎は絶壁の細い道に沿って艱難に歩いた。

それと同時に、枯れた松の木がある崖に、彼を見つめる小さな影が二つあった。

「もう勝ち負けは決まっている。このまま放っておいても奈落に落ちて死ぬだろう。」
痩せこけた婆が言った。

彼女は青く冷たい瞳をしていた。その目には殺気がこもっており、まるで山に潜む毒蛇のようだった。

「いかん!」
彼女のとなりで、太った爺の声が鐘のように響いた。
「あいつは屠毘荘で三百六十三の命をとった、門番の犬まで彼に…」
「屠毘荘主から傷を負ったとは言え、油断してはいかん!」

「フン…」
婆はあっという間に森の中へ消え去った。

「……」
爺も片跛になった剣客を暫く見つめると、腹を触りながらその場を立ち去った。
その道を行く途中、草には一本も触れなかった。

突然空が暗くなり、雨が降り始めた。
雨の中、金七十二郎は剣を杖にして山道を歩いた。
結局、失血と寒さに耐えられなかった彼は岩の上に倒れてしまった。

闇に飲み込まれる前、彼の前には薄水色の裙が…
懐かしい光景だった。