図鑑/書籍/本文5

Last-modified: 2025-10-17 (金) 01:16:13

物語:キャラ/ア-カ | キャラ/サ-ナ | キャラ/ハ-マ | キャラ/ヤ-ワ || 武器物語 || 聖遺物/☆5~4 | 聖遺物/☆4~3以下 || 外観物語
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図鑑/書籍/本文5

火山大王と陰縫いの針■

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隠玉の泉■

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ハナン・パチャの記録

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◆第1巻
これは、ナタ有史以来、最も知恵のある賢者「盗炎の賢者」こと、ワシャクラフン・ウバ・カンと、彼が建造した「ハナンパチャ」で生きた部族の盛衰の物語。

他の古い物語と同じように、この物語の始まりも、星月が空を、竜たちが大地を、夜神が夜域を治めていた時代にさかのぼる。

その時の人間にはまだ知識がなく、荒れ果てた大地を彷徨っていた。初代炎神は未だ誕生しておらず、誰一人として神の目を持たない人々は元素力に翻弄されるしかなかった。

ワシャクラフン・ウバ・カンが赤と黒の大地に「燃素」の種火をもたらして、やっと人間は猛獣と悪竜に対抗する力を手に入れた。

賢い読者の諸君はきっと気になっているだろう。一介の人間にすぎない賢者ワシャクラフン・ウバ・カンが、どうやって火種を守護する悪竜から燃素の種火を盗み取ったのだろうか、と。

これが、今から語る一つ目の物語だ。

伝説によると、昔々、赤と黒の大地に一匹の翼竜が棲んでいた。それが火山の大王シウコアトルの子孫だ。

実はその竜がシウコアトルだと言う物語もあるようだが、一体どんな語り部がそんな間違いをするのだろうか? シウコアトルを倒したのは、初代炎神のシュバランケなのだから、ここでシウコアトルが倒されてしまうはずがないのである。

とにかく、火山大王が長い眠りについている間、この見栄っ張りな翼竜は、火山大王のものだった財宝を、自分のものにして、王を自称するようになった。

その財宝の中で、特筆すべきは「火リン石」と言われる宝物だ。それは大火山の深部にある源火によって錬成された晶石で、捉えどころのない虹のような色をしていて、いつも眩しいほどの光を放っている。

その光の下では、翼竜もまた、美しく輝いて見えた。

「見よ、我はこんなにも美しい! 我の光が四方を照らしている、この我こそが、地上の太陽なのだ」

翼竜はそう言った。だが実のところ、彼は太陽などではない。その美しさは「火リン石」の光を反射したものに過ぎず、その光もまた、彼が暮らす赤と黒の大地を照らす程度のものだった。

翼竜の見栄が夜神の怒りを買ったのだろうか。夜神は賢者ワシャクラフン・ウバ・カンを彼の討伐に遣わした。それだけでは安心できない神々は、愚者チャアクを同行させた。

夜神の庇護のもと、二人は赤と黒の大地にやってくると、すぐにあの光る翼竜を遠くから見つけた。ワシャクラフン・ウバ・カンは急いで近づくのではなく、まず竹で吹き矢を作って、翼竜の目を一撃で射て潰した。

それに大喜びしたチャアクがすぐさま翼竜を捕えようと突っ走ろうとしたが、賢者に引き留められた。

「愚鈍なチャアクよ、やつは今片目が潰れているとはいえ、まだ無限の力がある。君は人間の身で、どうやってやつと戦うつもりだ?」

賢いワシャクラフン・ウバ・カンはより良い別の案を思いついた。

見栄っ張りの翼竜は傷を負って、自分の洞穴に引っ込んだ。そこで、賢者ワシャクラフン・ウバ・カンは愚者チャアクと共に医者に扮して、彼の洞穴に入っていった。

「ああ、何ということでしょう! 貴方様は恐ろしいほどに光り輝いていらっしゃいますぞ! 惜しむらくは、貴方様がご自身のお姿を目にすることができず、世の人々も貴方様の美しさを拝めないことでございます。」

ワシャクラフン・ウバ・カンがそう煽てた。

「これも全て数日前、どこからかやってきた卑怯な輩のせいだ。やつが我の目を潰したために、今はこうして洞穴に隠れているのだ」

「何という巡り合わせでしょう。私たちは通りすがりの医者で、目の病気を専門としております。私の見立てでは、貴方様の目玉をきらめく宝石に変えるだけで、元通り目が見えるようになりますぞ」賢者は話を続ける。「それだけでなく、貴方様の牙と爪を全て宝石に換えることもできます。そうすれば、貴方様は今よりも素晴らしく、十二分に輝くでしょう。」

見栄っ張りの翼竜はその話を聞くと、思わず十二倍の輝かしい美しさに心惹かれ、深く考えないまま嬉々として承諾した。

承諾したのを聞いて、賢者と愚者チャアクは事前に準備していたグレインの実を取り出し、翼竜の目、牙、爪を全て──グレインの実に換えた。

可哀そうな翼竜は、目を治してもらうことはおろか、騙されたと気づいた時には、目の前の人間二人を食い殺すこともできず、あっけなく死んでいった。こうして、「火リン石」はワシャクラフン・ウバカンの手に渡った。

愚者チャアクは「火リン石」を夜神に献上すべきと考えたが、賢いワシャクラフン・ウバ・ガンには別の考えがあった。

彼は大地を統べる竜たちに人間を超える力があるものの、人間を超える知恵があるとは限らないことを知っていたのだ。そして、竜の力の秘密は、この「火リン石」にあった。

だから彼は「火リン石」を割ったのだ。すると、石から莫大な力が湧き出し、賢者ワシャクラフン・ウバ・カンは竜の力を手に入れた。それが「燃素」だった。


◆第2巻
次に、賢者ワシャクラフン・ウバ・カンが如何にして、燃素を部族の人間に伝授し、「ハナン・パチャ」を作り上げた、*について語ろう。

赤と黒の大地から離れた後、ワシャクラフン・ウバ・カンと愚者チャアクは、人間の部族が暮らす山の森の境目までやってきた。

ワシャクラフン・ウバ・カンは人間に燃素の力の使い方を教えようとしたが、彼が口にする燃素にどのような使い道があるのか誰も分からず、習おうとする者は一人もいなかった。

「火起こしなら燧石で十分だし、火を起こす燃料なら、この森の草木や薪がそこら中にある。燃素なんてどんな使い道があるんだ?」

「短見な者よ、草木と薪がいつか尽きると知らないのであろう。石こそがこの世に無限に存在するものだ。燃素で石を燃やすことができれば、燃料の問題を一挙に解決できる」

賢者は自信満々にそう言った。

「ハハッ、私たちはその日まで生きられないかもな」

当時の人間はまだ、夜神の国にいる先祖と会えないので、当然、後のことも考えたりしない。だから、ワシャクラフン・ウバ・カンは諦めるしかなかった。

愚者チャアクは苦悩する賢者を見て、全ての人に燃素がもたらす身近なメリットを見せる方法を何か考えるべきだと、そう賢者に助言した。

「たとえば、俺たちはこの大きい石を山よりも高いところに持ち上げられる。みんながそれを見れば、きっと気になって俺たちのところへやってくるはずだ」

愚者の言葉とはいえ、他に方法がないワシャクラフン・ウバ・カンはとりあえず試すことにした。ワシャクラフン・ウバ・カンはまず、燃素をチャアクに伝授し、二人で大地を浮かせた。この浮かせた大地こそ、「ハナンパチャ」であり、今、静寂の浮遊島と呼ばれているものだ。

ただ、今と違うのは、当時のハナン・パチャはまだ一つの完全な陸地だったことだ。それは雲にも触れる高さにあり、ナタの全ての人間がそれの存在を目で確認できた。そして四方八方の人が皆、好奇心に駆られて集まってきた。

心優しいチャアクは湖の畔から、燃素の力で人々をハナンパチャに送り届けた。それから、ハナンパチャに登った人々は賢者ワシャクラフン・ウバ・カンから燃素の使い方を習った。

ワシャクラフン・ウバ・カンの引率のもと、人々はハナン・パチャに定住する最初の部族を築いた。


◆第3巻
次は、ハナン・パチャの人々が禁忌を犯したことで、盗炎の賢者がナタを離れた物語だ。

人々は燃素の力の使い方を習得し、ハナン・パチャで町を作った。町には豪華な宮殿と神殿があり、すべてが珍しい宝石や、鮮やかな羽毛、香る花々で作られていた。

建造が一段落して、ワシャクラフン・ウバ・カンはハナン・パチャをもっと高く浮かせると決めた。

「君たちは大地によって生み出されたものを、もう二度と口にしてはいけない。だが水は例外だ。この世の全ての川は万水の源に由来し、夜神のコントロールを受けないのだから」

どうしてもっと高いところへ行かないといけないのか、チャアクには分からなかった。そして、チャアクはナタを離れたくなかった。しかし、そのことをワシャクラフン・ウバ・カンに質問しても、「月の大地」やら「ニュワク聖石」のような、彼には分からない答えが返ってくるだけだった。

ワシャクラフン・ウバ・カンをこの世で一番賢い人だと信じていた人々は、結局彼の言葉に従った。それから人々は空海で魚を飼い、マリモを育てて食料とした。ハナン・パチャも日に日に高くへ飛んでいった。

やがて、夜神は賢者の意図に気づいた。人間が離れていくのを恐れた夜神は、賢者の計画を阻止することを決めた。

ある日、賢者が留守にしている隙をつき、夜神は部族の人間に扮して謎の水が入ったビンを持って、湖の畔にいるチャアクのところへやってきた。

「友よ、もうここで湖の水を見つめるのはよそう。ほら、このビンの水は湖の水よりも百倍甘いぞ。早く飲んでみるといい」

賢者の言葉が頭をよぎったが、これはただの水だから、きっと問題ないだろうと、チャアクは考え、ビンを受け取って一口飲んだ。

それは言われた通り、ものすごく甘かった。それから、夜神は彼にさらに多くの甘い水を分け与え、彼もまた、その甘い水をハナン・パチャに持ち込んでみんなに分けた。

ところが、その甘い水は地上で育つ穀物を醸造して作られたものだった。今の私たちの言葉で「酒」というものであることを、チャアクは知らなかった。

賢者が戻った時には、既にみんなベロベロに酔っぱらっていた。

彼らがもうナタを離れられなくなったと悟った賢者は、人々をハナン・パチャから追い出した。散り散りになった人々は、こうして燃素をナタの各地へ持ち込んだ。

一方で、「盗炎の賢者」は帰りの道へ旅立った。

「帰りの道? なんだ、赤と黒の大地に帰ったのか?」

「私の話をちゃんと聞いてたか? 赤と黒の大地は賢者が燃素を盗んだ場所だ。ああ、でも確かに伝説では、賢者の故郷を明言していない…だからきっと、今言った帰りの道は、いつかまた戻ってくるという意味だと思う」

「語り部の常套句だな、この期に及んで続編を匂わせなくてもいいんじゃないか?」

とにかく、「盗炎の賢者」が去った後、チャアクは夜神の導きに従い、地上でも定住する部族を作った。それからナタは人間の時代を迎えるが、それはまた別の物語だ。

稲妻秘聞録

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◆第1巻
玄坊女

遥か昔、蛇介彦という名の奉公人がいた。整った顔立ちをした、才能を持った青年であり、同僚から大層尊敬されていた。ある日、彼が衛門の督の家宅を訪れると、偶然にも一人娘の紗夜姫に会った。彼女はまだ幼かったが、その美貌は息を呑むほどであり、一顰一笑、一挙一動から天性の優しさと優雅さが滲み出ていた。互いに一目惚れした二人は、衛門の督に内緒で生涯を共にすることを約束し、あとは成人後に婚姻を結ぶのを待つのみであった。

しかし、世の状況が一変する。反乱軍が蜂起したのだ。蛇介彦は幕府の命に従い、反逆者の討伐に向かうことになる。知らせを受けた紗夜姫は慌てて彼を訪ね、涙を流しながらこう言った。

「貴方の今日の出征、果たしてお戻りになられるのはいつになることか。加えて戦場は甚だ危険であられる。貴方の身に不測の事態が降りかかれば、妾は一人で生きていけぬ。貴方が本当に妾を愛しているというのなら、ここに残って妾を娶ってくだされ。富も地位もいらぬ、妾はただ貴方と慎ましやかに連れ添いたいのじゃ。」

その後、紗夜姫はこのような短歌を詠んだ。
今日別れ 袖濡る涙 哀暮れて
朝露となり 消ゆる我が身よ

だが、蛇介彦はその言葉に説得されることなく、こう答えた。

「お嬢、心配はいらぬ。暫くの別れにはなりまするが、拙者の心はお嬢一人のもの。七世生まれ変わろうとこの想いは不変。それに男として生まれたからには、名を馳せる機を見過ごすわけにはいかぬ。男たるもの、他人が挙げる数々の戦果をどうして黙って見ていられようか?戦場より帰り次第、お嬢を娶り、未来永劫共に過ごそう。」

そう言い、蛇介彦は精巧な作りの手鏡を紗夜姫に贈った。それは後日、共に成人の儀を行う際の契の品でもあった。そして、彼は返歌を詠んだ。
得ぞ知らぬ 此の命の ゆく先よ
心寄り添い 果てまで歩みて

数ヶ月が過ぎた頃、幕府軍が敗北し、兵士たちの死傷数は甚大であるという噂が流れた。少女は悲しみのあまり病をこじらせ床に臥せ、しばらくして帰らぬ人となってしまった。蛇介彦は多くの手柄を立て戦場から戻ったが、意中の者がこの世を旅立ったと知り悲しみに暮れ、毎日線香をあげ続けた。

しかし、彼女の思いが強すぎたのか、埋葬された紗夜姫は安らぎを得るどころかアビスの邪気に当てられ化け物となり、丑三つ時に蛇介彦を訪ねた。此の時の彼女の美貌と若さは健在であったが、生気は微塵も残っておらず、彼の頬を撫でようとする手はすでに黒い骨と化していた。武士である蛇介彦も、流石に彼女の姿には怖気づき、転がるように逃げ出した。川までたどり着いた蛇介彦は、船乗りに自分を向こう岸まで乗せてくれと懇願した。紗夜姫が川辺に着いたとき、船は一艘も泊まっていなかったため、彼女は川に飛び込み両足を魚のひれに変えて、蛇介彦を追って向こう岸に渡った。

影向山に逃げ込んだ蛇介彦は化け狸から学んだ術で石の中に隠れた。石だらけの影向山、後から追ってきた紗夜姫がどんなに探そうが見つけられる訳もない。紗夜姫が途方に暮れていると、蛇介彦に贈られた手鏡が地面に落ち、砕けた。なんとその破片すべてに、蛇介彦の身を隠した石が映っていた。

紗夜姫は石を抱え、悲しみに涙しながら愛する人に思いを告げ、当初の誓いを果たすよう願った。しかし、蛇介彦はすでに恐怖に囚われていたため姿を現さなかった。出てこない蛇介彦に打つ手がなくなるも、紗夜姫は恋人と離れることを拒み続け、心は燃えるような焦燥に駆られた。すると彼女は本当に燃え上がり、石の中に隠れていた恋人共々、灰になったのであった。

以上の物語を語り終えた友人は、この物語に対する私の意見を興味津々な様子で求めた。

「我々フォンテーヌ人の視点から考えると」私は答えた。「この蛇介彦さんは、紗夜姫を心から愛しているとは確かに言えませんね。私たちの歌劇で讃えられる伴侶は、片方が不幸にも命を落としたら、もう片方は愛する人の後を追うものです。ドゥレストとアドシルティアの約束、タンクレードとカリクレアの契り、コペリウスとコッペリアの別れと、例外は一つとありません。たしか私の国のある古典小説は愛の定義をこう定めていました——たとえすべての肉、骨、内臓が切り落とされようと、骨髄の中で相手と共に眠る。未来永劫共にすると誓いを立てたのなら、相手がアビスに染まれど共に永き眠りに落ちる。また蛇介彦さんは稲妻の武士ですから、契りや約束を我々よりも重んじるはずです。」

「もちろん、その言い分はごもっともです。稲妻でも多くの人は蛇介彦を臆病で裏切者だと評しています。でも、皆がそう思う理由は、彼が紗夜姫の気持ちに応えなかったからではなく、彼がアビスの妖に直面したとき、愛する人の介錯をするでもなく逃げることを選び、石の中に隠れたからなんですよ。だから最後に自らの手で贈った鏡に映り、灰になったのも自業自得と言えます。」友人は自分のカップに茶を注ぎ、話を続けた。「実は、この物語は元々璃月の小説からインスピレーションを得たものだと言われているんです。その小説だと、主人公は最初から最後まで裏切ることはなく、また肝心の愛する人同士が引き離される理由は、妖物と化した少女を石の下に封じ込めた輩がいたから、というものだったのですが——まぁ、これ以上は稲妻の物語とは関係のないことですね。私が気になるのは、あなたの身の上にも似たようなことが起きたら、どうするのかについてです。例えば、もし私がアビスに侵蝕されて魔物と化した後、あなたに会いに行き、物語を聞かせてほしいと言ったら…」

「アビスに侵蝕されて魔物になったあと、まずやることが私のところに来て話を聞きに来ることだとしたら、あなたは大丈夫だということです。あなたは怪談に出てくる紗夜姫よりもずっと厄介ですしね。さて、宇佐さん、お茶を飲み干してしまったので、私の分も注ぎ足してはいただけないでしょうか?」

◆第2巻
夢喰い獏

むかしむかし、紺田村というところの近くにお爺さんとお婆さんが住んでいました。二人は貧乏で苦しい生活をしていましたが、心優しかったため皆に好かれていました。

ある雪の降る冬の日、お爺さんが山に柴刈りに行くと、丸々太った小さな動物が罠にかかっているのを見つけました。どんなにもがいても罠を外すことができず、うーうーと唸っており、とても見ていられません。

「かわいそうに!」とお爺さんは憐れみました。「こんなに小さなイノシシなのに、狩人の罠にかかってしまうなんて。はぁ、捕まえたところで肉も大して取れない、命だけ奪ってしまうことになる。わしが解いてやろう!」

お爺さんは斧を置いて、小さなイノシシの足に絡みついている縄を解きました。イノシシはうーうーと鳴き、嬉しそうにお爺さんの周りを何周か走った後、森の中へと戻っていきました。

柴刈りが終わったお爺さんは、お婆さんにこの話をしました。お婆さんはそれを聞いてとても嬉しそうに「あらお爺さん、良いことをしましたね。小さいイノシシが大きくなれば、もっと沢山の肉を食べられますよ!」と言った。

ある日の夜、お爺さんとお婆さんが寝ようとすると、突然誰かがドンドンと戸を叩き、優しそうな若い女性の声が聞こえてきました。

「ごめんください!誰かいらっしゃいますでしょうか?」

こんな大雪の中、どうして外に人がいるのだろう。お婆さんが不思議に思って戸を開けてみると、そこには十七、十八歳ぐらいの娘が雪をかぶって立っていました。娘はとても美人で、着ていた服こそ質素でしたが、まるで璃月に伝わる仙女様のような美しさを持っていました。それを見たお婆さんはかわいそうに思い、慌ててこう言いました。

「まぁ、こんな雪の日に!さぞかし寒かったでしょう?早く部屋に入って身体を温めていきなさい。どちらのお嬢さんかは知らないけど、こんな遅い時間に私たちを訪ねたからには、何か用があるんでしょう?」

「夜分遅くにお邪魔してしまって本当にすみません。不幸にも私の両親が亡くなってしまい、二人の遺言に従って父が生前親しくしていた友人を頼るところだったのです。しかし思いもよらぬ大雪で、夕方には道に迷ってしまいました。もしよろしければ、一晩お二方の家に泊めていただけませんか。廊下や倉庫でも構いません。」

お爺さんとお婆さんはそれを聞いて同情し、娘を家に泊め、食事や布団を用意しました。そして善い行いをしたからか、その夜お爺さんとお婆さんはとてもいい夢を見ました。

それから数日経っても、雪が止まなかったのでお爺さんとお婆さんは娘をしばらく泊めてあげました。その間、娘はずっと進んで二人の世話をしていました。働き者で優しく、どんな仕事も丁寧にこなすため、二人はとても喜びました。

ある日、娘は突然お爺さんとお婆さんにこう言いました。

「以前お二方に伝えた通り、私の両親は亡くなる前に私を父の友人に託しました。しかしいくらお相手が友人とはいえ、私は会ったことがありません。どんな人なのか、私という負担を受け入れてくれるかどうかも分からないのです。これまで私の面倒を見てくれたご恩、どうお二方に返せばいいのやら。もしお二方がよろしければ、いっそのこと私を養女として迎えていただけないでしょうか。平凡な娘ですが、自分にできる限りのことを尽くして二人に孝行したいのです。」

二人はその言葉を聞いてたいへん喜びました。二人の間には子供がいなかったので、こんなに賢くて優しい娘ができるなんて思ってもなかったのです。それ以来、二人は本当の娘のように彼女と接し、娘もそれに応えるかのように孝行しました。彼女は、人前でも家の中でも文句のつけようがない良い娘であり続けました。

またしばらく経ったある日の朝、娘は二人が見たこともない、いかにも美味しそうな菓子を二人の前に運んできて、こう言いました。

「お二方が寝ている間、家に代々伝わる菓子をこっそり作らせていただきました。この菓子を町に売りに出してください。きっと皆気に入ります。」

すると娘の言う通り、美味しい菓子は裕福な商人たちに気に入られ、高く売れました。それから毎朝、娘が作った菓子をお爺さんは町に売りに行き、生活がどんどん豊かになっていきました。

何度もそうやっていくうちに、二人は不思議に思うようになりました。家には普通の小麦粉しかないのに、娘はどうやってこんな美味しい菓子を作っているのだろう?やがて二人は好奇心を抑えきれなくなり、その夜、娘が菓子を作っているところを扉の隙間からこっそり覗いてみました。しかし部屋に娘はおらず、代わりに丸々太った小さな動物が短い鼻で空中に浮かぶ夢を引っ張り、菓子に作り変えている姿があるのみでした。二人は大層驚きます。その物音に気づいた小さな動物は、慌てて若い娘の姿に戻り、二人の前に跪いてこう言いました。

「お二方を驚かせてしまい、誠に申し訳ございません。この姿を見られた以上、もう隠す必要もないでしょう。私は以前、山でお爺さんに助けられた獏です。お二方に恩返しをするために、娘の姿に化けて会いに参りました。お二方の悪夢を美味しい菓子に変え、町にて良い値で売って頂いていたのです。」

「なんと!」お爺さんは驚いて声を上げました。「お前はあの時のイノシシなのか!」

「まず、私はイノシシではなく、璃月から来た獏です。次に、見破られた私の正体が広まれば、無数の美しい夢と悪夢を統べる私の女主人は、この迂闊な行動を許さないでしょう。そうなれば、お二方も巻き込みかねません。お二方には随分お世話になっただけではなく、色々な迷惑もお掛けしました。それでも私は心からお二方の娘になりたいと願っていることを信じていただきたいです。しかし、おそらくこの願いが叶うことはないのでしょう。これにて別れることをお許しください。」

「獏?聞いたことがないのう。お前が人でもイノシシでも、わしたちの娘であることは変わらぬ。」

「嬉しいお言葉、心の底から感謝いたします。ですが、もしここに獏がいるとの情報が広まれば、いつか災いが訪れるかもしれません。それと、私はイノシシではなく、獏です。」

「まあまあ、そんなの関係ないでしょう。あなたが言わない限り、誰もあなたがその『獏』だとは思いもしませんよ。イノシシを飼っている人のことだって、誰も変とは思わないじゃない?」

「たしかに、そのとおりでございます。ただし、私はイノシシではなく、獏です。」

そうして、小さな獏は老夫婦のもとに残り、一緒に暮らすことにしました。彼女が作った美味しい菓子のおかげで、お爺さんとお婆さんは幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。

石素人

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◆第1巻
炎が盗まれてから三千年、文字の記録が生まれて以来、かように理性的かつ繁栄していた時代はなかっただろう。

月の光の届かぬ夜でも、高い建物が無数と雲に突き刺さる大都市は依然として明るい。街を繋ぐ金属パイプは異様な輝きを放ち、その中を流れる金色の液体は、街全体にエネルギーと活力を注いでいる。

それこそが「石素」、人類文明の血液である。百年以上前、テクノロジー・ロードたちに発見されて以来、石素を動力源とした数多の発明は人類を新しい時代へと導いた。自動化された耕運機は各土地の生産量を六倍以上に増加させ、空を翔ける舟は大陸に点在していた都市を一つに繋げた。

今の人類は石素のない生活など想像できない。それは都市を統治する執政官たちにとっても同じである。

最初に石素が発見されたのはナタランティアと呼ばれる古代都市の遺跡だった。この都市は地底の奥深くに位置し、そのさらに深いところから石素を採掘できた。

これほど深い場所まで掘削する技術が欠如していたことにより、大陸全土の石素産出は遺跡を管理しているテクノロジー・ロード評議会に握られていた。石素の需要が増加するにつれ、石素の分配をめぐる都市間の対立も激化し、戦争の影が大陸を覆い尽くした。

しかし少なくとも今は、大都市の人々は頭上で渦巻く暗雲をしばらく忘れることができる。街の中心部の広場は、ここで開催されている「万都博覧会」のために訪れた人々で賑わっていた。

テクノロジー・ロード評議会によって開催された平和と進歩を掲げる博覧会では、最新の技術成果を用いた発明品が展示される。これらの発明品は、すぐさま各都市の軍備競争に投入されてしまうものだが、それでも技術の進歩は張り詰めた人々にひと時の安らぎをもたらすのだ。

ただし、それはあなたを除いての話だった。

あなたは、広場に並べられた目が眩むほど珍しい発明品にちっとも興味が湧かなかった。周りの雑踏が、ここで待ち合わせをするのは正しい選択ではなかったという現実をさらに突きつける。

数週間前、ある過激派組織が都市サトールの石素転送中枢を破壊し、彼らお手製の映影を放送した。映影の内容はほとんどが「石素は悪魔からの贈り物だ」、「テクノロジー・ロードが世界を破滅に導いている」といった陳腐な言葉で構成されたもので、彼らが自分たちを「無知の者」の使徒と名乗ったこと以外、特筆すべき点はなかった。

しかしサトールの執政官は、破壊行為は大都市の上層部が指示したもので、二つの都市間の戦争を煽ることが目的だと主張し、過激派組織のメンバー全員が大都市出身である証拠を提示した。

過激派組織との関係に白黒をつけるために、大都市はテクノロジー・ロード評議会への介入を申請した。あなたがここにいるのは、まさにこの件を調査するためであった。

「ははっ、名探偵さん、お待たせいたしました。展示会があまりにも面白いもんで、ずいぶんと時間をとられちゃいましたよ。」

一連の事件の関連性について思考を巡らせていると、小柄で丸みを帯びた紳士に後ろから声をかけられた。どうやら彼こそが、ここで会う約束をしていたテクノロジー・ロード評議会から派遣されたエージェント、アクラのようだ。

「無駄話はよしましょう、アクラさん。まずは私たちがそれぞれ持っている情報を出し合いましょう。」

◆第2巻
この目で見ていなければ、このように繁栄した大都市に、まだこのような蒙昧な時代の遺物が存在しているとは思いもしなかっただろう。

数日の調査を経て、あなたとアクラはついに「無知の者」を自称する過激派組織の潜伏拠点、陸橋の下に隠されたボロボロの礼拝堂を見つけることができた。

そしてあなたは、彼らは時代に捨てられたラッダイト運動の支持者であり、大御所たちが主張している政治的な陰謀とは無関係だと確信した。

しかし、何はともあれ証拠を見つけなければテクノロジー・ロード評議会に報告することはできない。あなたとアクラはそれをよく理解していた。目的をなすために、中に潜入して必要なものを手に入れることにした。潜入のタイミングは、外に謎の荷物を運び続ける人たちが全員出払った時だ。

三週間も張り込んで、ようやくチャンスが訪れた。聖堂には合計十二人が出入りしていたが、その日の朝に全員が車両に乗り込んで出ていった。経験上、彼らが帰ってくるのは早くても夕方頃になるはずだ。あなたとアクラは手分けして行動することにした。アクラは出入り口付近で見張りをし、あなたは聖堂の中を探ることになった。

長く歪んだ通路には、防腐剤のような変な匂いが漂っている。暗闇の中をしばらく手探りで探索し、ようやく出口を見つけることができた。古い旧式のオイルランプを使っているからか、礼拝堂内部の空間は想像していたよりもずっと広く感じる。薄暗い灯りの中、壁際に妙な金属の缶が積み上げられているのが見えた。あいつらが毎日ここから外へ運んでいたのは、きっとこれだったんだろう。

慎重に近づいてみると、その缶には共通語で「無知」と書かれた紙が貼られているのが見えた。

「どうせまたなんかの怪しい教義にでも従ってるんだろう」と、あなたは思った。

その缶を一つ持ち帰ってゆっくり調査しようと考えたその時、肩に冷たい手が置かれた。

「くそっ!」

あなたとアクラが張り込んでいた三週間、この礼拝堂を出入りしていたのは全部で十二人のはずだ。では、コイツはずっとここに籠っていたのか…それとも別の出入り口でもあったのか。

慌てたあなたは壁際に積まれていた缶を蹴り破ってしまう。すると、鼻にツンと来る防腐剤の匂いが溢れ出た。その匂いは、あなたがこの場に踏み込んだときに嗅いだものと同じだった。

刺激性ガスのおかげで、朦朧としていた意識が少し回復した。それにより、その時やっと背後から襲ってきた相手の顔をはっきりと見れた。それはかろうじて人間と呼べるような歪んだ顔で、表面には二つの空洞があるのみだった。

「見えてるのか?見えてるのか!?」と男は大声で叫びながら、がっしりとした腕を伸ばして辺りを探し回った。

こいつは目が見えてない。それこそがここを離れなかった理由なのだろう。こちらの居場所が分かっていないのだと悟った後、あなたは素早く出入り口へと向かい、よろめきながら廊下に出た。

「おい、名探偵、どうした?無理するな、そこでじっとしてろ!」

ふと仲間の声が聞こえたような気がした。すると慌ただしい足音と共に、声の主はすぐに駆け寄ってきた。

行動は失敗に終わった。だが、何とかあの奇妙な缶を持ち出せた。収穫がないわけではない。

そう考えながら、あなたは何とか身体を起こそうとする。そして力を振り絞って顔を上げた瞬間、目の前にはドクロのような、機械のような化け物がいた。その化け物のヘコんだ顔の中心にある、生気のない目があなたを捉えると、冷たい声を響かせた。

「見えただろう、『無知の者』よ。」

◆第3巻
巨大な頭部、異様に細い四肢。それらが無数の糸で芋虫のような身体に繋がれていた。

「見ての通り、これが『人類』だ。世界に残っている、たった一つの『人類』の標本。」

目の前の化け物は、培養槽に入っているもう一体の化け物を指さして言った。

だいぶ慣れ始めてはいたが、できる限り顔を逸らした。こいつの目を見てると、なぜか背筋が寒くなるからだ。

「これが『人類』なら、俺たちは何なんだ?」

ついさっきまでアクラと名乗っていた人物に、あなたは尋ねた。今思うと、アクラというのは恐らく、彼がテクノロジー・ロード評議会で使用していたコードネームに過ぎないのだろう。

あなたの理解できない技術によって、礼拝堂はナタランティアと繋がっていた。もしかしたら、実はこういった場所がすべての街に隠されており、彼らは闇の中を行き来しているのかもしれない。

「お前たち?地表にいる種族のことを指しているなら…パグ、ビーグル、グレイマンなどという様々な呼び名を付けてきたが…」

「何はともあれ、それは我々が創った種族だ。生物学的機能は我々と真逆になっており、我々が適応する環境はそれらにとって劇毒である。逆も然りだ。したがって、それらを分解吸収することにより、我々の適応できる世界を再び創り出すことができる。」

もし本当にこいつの言う通りだとしたら、自分たちの文明の歴史は全部この化け物たちが創り出したもので、無数の輝かしい技術と発明は全部こいつらがもたらしたものだということになる。

近くにこいつらがいながら気づけないのは、自分たちの脳内に「理性の霧」と呼ばれる、本当の世界を見えなくするガスを分泌する腺体が存在しているからであった。

今、この者の醜態を見ることができるのは、先ほど腺体の分泌を抑制するガス「無知」を吸い込んだからである。そしてこの「無知」は、まさに前回の輪廻で自分が創り出したものであった。

「最後にもう一つ聞きたい。石素を我々にもたらした結果、なぜ石素を使い果たす世界大戦で、我々の文明が滅ぶと確信できる?」

「石素」——ナタランティアの遺跡で発見されたスーパーエネルギー。その本質はこの化け物たちが棲まうエネルギー体である。こいつらの文明が起こした大規模な戦争により星全体が有害物質に汚染されたとき、生き残った「人類」はその命をエネルギーという形に転換した。そして、地下深くの種の保管庫に保存したのだ。

その後、こいつらは汚染された星でも生きられる種族を新しく創り出した。その新しい種族に汚染物質を長い時間かけて分解させ、自分たちの適応できる世界を再び蘇らせようと考えた。

しかし、蘇った世界にその種族の居場所はない。地表の文明が石素を発見し、それを用いた高等文明を構築すると共に、古き生命体が解き放たれるのだ。こいつらは地表の文明の滅亡と共に、完全なる新生を手にする日を待ち望んでいる。

「心理学の歴史について学んだことはあるか?あぁ…聞いたことすらなくても特に問題ない。とにかく、我々が設定できる内容は生物機能に限った話ではない。種族の歴史も、技術的課題さえクリアできれば容易いのだ。」

「止まぬ探求心と抑えきれぬ欲望、そして勝利に対するこだわりがもたらす結末は一つ。『無知の者』が否定しようと、お前たちに備わっている無駄な道徳的概念がゼロになることはない。どれだけ進化を経ようとな。」

ついに、あなたは種の保管庫の最深部にある最後の部屋にたどり着いた。そこには「無知の者」の記憶が何世代にもわたって保存されていた。

古代文明の生き残りが命を石素に変えようと決心したとき、それを拒む少数派がいた。彼らは個体としての命を捨て、無限の知恵に溶け込むことを受け入れなかったため、「無知の者」と呼ばれた。

多数派は彼らの権利を否定することができず、彼らが地表の生命として何度も転生できるよう、この最後の部屋を残した。いつか「無知の者」が彼らに加わり、全体の懐に戻る日が来ると多数派は信じていたからだ。

そう、あなたはこの「無知の者」たちのリーダーなのであった。法律を作る先覚者、美徳を讃える詩人、暴君に反抗する戦士などに関する無数の記憶を見た。

その記憶の起点で、古都から追い出された人々の上に覆いかぶさる巨大な影が見えた。その影は何かを言っているようだが、内容までは思い出せない。ただその影にひどく会いたいという気持ちだけが湧き上がった。

「無知の者」は皆、最終的にはここに戻ってきて、自分の答えを出すのかもしれない。

では、あなたの答えは?

狡猾なコンポレ

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◆第1巻
このウォーベンは、謎煙の主の英雄サンハジ・コンポレが自ら作ったものだと伝えられている。その内容は簡潔ながらも奇妙であり、部族の年配のシャーマンたちの間でしばしば笑い話にされることもある。それは、狡猾なこの英雄が人生で数えきれないほどのジョークを飛ばしてきたのと同様に、このウォーベンも月夜のような暗い色を帯びているからだ。これは彼が使った糸に秘密があるという人もいれば、黒曜石や漆黒の貝殻を用いて染めたからだという人もいる。
昔々、謎煙の主の集落にコンポレという狡猾な悪党がいた。コンポレは詐欺や盗み、略奪を繰り返していたため、部族内でも悪名が高かった。しかし、彼には誠実な弟、サンハジがいた。
古の時代、十字路の主はなおも人間界を歩き、六部族の民に夢や死の恩恵を授けていた。冥界への道を示し、魂を黒き大河へと溶け込ませる彼は、夜の国を統べる「呪術医の父」であり、「夢境の母」でもあったと言われている。伝説によると、彼は黒き大河の果てに酒造小屋を建て、そこで作ったキノコ酒を飲むことで、夢を通じてあらゆる者の運命を知ることができたという。
「もしそんな力を手に入れたら、謎煙の主の予言者みたく運命を予言し、この世界の真実を知れるようになるんじゃないか?」
悪党は目を怪しく光らせた後、こうも考えた、
「そうなれば、秘密の知識と禁じられた夢は、どれほどの利益になるだろうか?これを交渉の材料にすれば、計り知れない見返りを得られるんじゃないか?」
狡猾なコンポレは手を擦りながら、悪巧みを始めた。

◆第2巻
十字路の主から不思議なキノコ酒を騙し取るため、コンポレは誠実な弟サンハジを連れてきてこう言った。
「弟よ、お前の善良さは部族の誰もが知っている。お前が心優しく、嘘をつかず、いつも誠実であることはオレもよく知っている。だから、これからやることはその真心と家族の絆にかけて、絶対に秘密にしてくれ。」
サンハジは兄の邪悪な企みに気付かず、頷いて了承した。
「では、計画をお前に話す。オレのやることには絶対に協力し、誰にもこの話を漏らすなよ。」
こうして、コンポレはその悪巧みをゆっくりと話し始めた。
「お前には十字路の主を訪ねてもらいたい。そしてこう言うんだ、オレが重い病にかかり、『呪術医の父』の薬がないと助からない、と。その間にオレが小屋に忍び込み、キノコ酒を盗み出す。それさえ手に入れば、部族のみんなにより多くの知恵を与え、たくさんの悩みを解消することができるはずだ。」
「よく考えてみろ、弟よ。十字路の主のキノコ酒があれば、部族にどれだけの利益をもたらすか。そして、それがオレたち兄弟にどれほどの利益になるのかを」
弟は断ろうとしたが、すでに兄の頼みを引き受けてしまった手前、協力するしかなかった。
もちろん、これはコンポレ自身が語った話のひとつにすぎない。彼が自らを弟を欺く悪党として描いた理由も、この話の真偽についても、彼が部族の英雄となった今では、真相を探ろうとする者はほとんどいない。

◆第3巻
サンハジは兄の悪巧み応じたが、正直者の彼にとって十字路の主を欺くことは大きな苦しみだった。そこで、サンハジは悪夢の中で、十字路の主に兄の企みを打ち明けた。
「夢境の母」は夜のように黒い両手を伸ばし、誠実なサンハジを抱きしめ、その額に口づけをした。彼女は暗闇に包まれた静かな夢の中で、サンハジの無礼を許した。それどころか、褒美として彼女は不思議なキノコ酒を黒曜石の杯に注ぎ、サンハジに渡した。
しかしその時、コンポレが突然弟のテントに乱入し、寝ている弟の首に粗い草縄をかけた。彼は弟が自分の計画を十字路の主に告げることを見越していたのだ。
こうして、夢境の主が警告を発する間もなく、サンハジは寝台の上で実の兄コンポレの手にかかり、命を落とした。キノコ酒が注がれた黒曜石の杯は手から滑り落ち、サンハジの胸元や、首に巻き付いている血に染まった草縄を濡らした。
十字路の主はこの許されざる大罪に激怒し、同時にサンハジの死に深い悲しみを覚えた。そして、即座に狡猾なコンポレに呪いをかけた。「不幸な弟サンハジは、お前の中で蘇り、お前のすべての運命を予言するだろう。だが、お前が欺いた者や害した者たちは皆、お前の記憶に焼き付けられる。そして、お前がついた嘘は弟の口を通じ、幾度となくお前の耳に語り掛けるだろう」こうしてコンポレはキノコ酒から得た力と引き換えに、決して消えない罪と呪いを背負うことになった。
それ以降、コンポレは「サンハジ・コンポレ」という新しい名で呼ばれるようになった。それから長い時が経ち、テノッチが英雄を招集して漆黒の狂潮との最後の戦いに挑んだとき、サンハジ・コンポレはようやく救いの道を見つけることになる…だが、それはまた別の物語だ。それにしても、決戦の日の後、漆黒の夜にサンハジ・コンポレの狡猾な笑みを見たという者が数多くいるという…おそらくはその物語も、サンハジ・コンポレが仕掛けた新たな冗談か、謎めいた逸話なのだろう。

スンジャタの初陣

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◆第1巻
ああ、我が兄弟よ、我が子よ、よく聞くのだ。
聞け、我が名はこだまの子のジェリー・マムドゥ。
こだまの子の詩人であり、叙事詩の伝道者だ。
私の血筋は、最初の叙事詩の詩人、ビラリーに遡る…
カイデン・コアティとビント・コアティの、誇り高き子孫なのだ。
ビラリーはかつて、流浪の賢者のもとで悠久の詩文を学び、
コアティ夫妻は、古の言葉を織物や天幕に編み込んでいた。

私の頭には、古き時代に君臨した龍王たちと蛮王たちの記憶が刻まれ、
私の舌は、最も饒舌な幻写霊と議論を交わすことができ、
私の物語は、多くの真理を明らかにし、私の言葉は、多くの虚偽を浄化する。
そうして洗われた物語は晶石の鏡のごとく透き通り、やがて歴史となる。
だが、かつての虹光を宿した明鏡の周りには、今も深い闇があり、
まるで亡者の深遠なる瞳に宿る燐光のように、それは静かに煌めいていた。
歴史は勝者を導くが、物語は亡き者たちの記憶とともにある…
結局、未来に眠る宝の鉱脈は、常に過去の岩脈から出ずるのだ。

さあ、聴くがいい。我が歌を、そして我らが英雄の歌を。
聴くのだ、野牛の子、巨犀の子に捧ぐ鎮魂の調べを。
我が語るは、マハン・スンジャタの偉業とその運命であり、
マリ・ギアタの志と燃える情熱であり、
ソゴレン・ギアタの轟く名声であり、
そして、ナレ・マハン・ギアタが宿敵と交えた、最後の戦いの結末である…
ああ、かつてこれほど多くの称号を持つ英雄がいただろうか?
漆黒の呪術も、邪悪なる霊も、彼を傷つけることは叶わぬ!

我が兄弟よ、我が子よ、誇り高きこだまの子らよ。
聞くのだ、忘れ去られし幾千もの古き王と、蛮族の物語を。
彼らが如何にして英雄スンジャタに征服され、
その後、如何にして彼とともに剣を取ったのかを。
そして、敵だった者が友となり、野蛮な者が善意ある者へと変わった話や…
山のごとく押し寄せる漆黒の軍勢を前に、
英雄スンジャタが如何にしてそれらを退けたのかという話を。
これは、歴史に刻まれることのなかった偉業と、誤解と犠牲の物語だ…

◆第2巻
この世の多くの賢人が必ずしも高貴な生まれとは限らないように、
スンジャタの父母の血筋もまた、古の王族の血を受け継いではいなかった。
悠久なる伝説は、暗黒の鉱洞や塩河のごとく遠ざかり、二度と戻ることはない。
しかし、その中から析出された岩晶のような真理が、詩人の口を通じて語られるのだ。
スンジャタの出自について、人々が語る内容はそれぞれ異なる。
親しき友は彼の出自を飾り立てようとするが、敵は決して彼を称えようとはしない。
彼の父母の名は何か、どの部族の出であったか?
蒼白に輝く三つの月に尋ねても、その答えは闇に消えるばかり。

物語の歌はこう語る。スンジャタは暁の星の恩寵を受けて生まれ、
彼の母は美しいわけではなく、父もまた強き体を持っているわけではなかった。
しかし、万物を見下ろす時の星は、人の美醜など気にはしない。
天地の運命を紡ぐことこそが、天より授かりし永遠の使命なのだから。
スンジャタが幼き頃、こだまの子らはムバンダによって統べられていた。
黒玉のようなムバンダは、かつて鉱山と宝石を司る偉大なる母であった。
彼女は若きスンジャタを見出だし、部族の戦士として導いた。
かくして、偉大なる英雄と鉱夫の物語が幕を開ける。

若きスンジャタが鉱夫としての道を歩み始めた時、
岩を砕く鉄槌は、彼の小さな体をはるかに凌ぐ大きさであった。
だが、強き少年が鉱洞の中で鉄槌を風のごとく振り下ろすと、
戦士たちは慌てて「鉱洞が崩れる!」と叫んだ。
「ハハッ、兄さん方、姉さん方、恐れることはない!」
「ただ俺の鉄槌が嵐を呼んだだけさ。ほら、ブンッ、ゴォォン!」
スンジャタが腕を振り回して山を打ち砕くと、その鉄槌から火花が散った。
皆はその光景に歓喜し、そして恐れた。こうして栄光の冠はスンジャタの手へと渡ったのだった。

母なるムバンダが夜神の夢へと還ったとき、
スンジャタはすでに、勇猛たる若き戦士へと成長していた。
だが、長を選出する日の夜、スンジャタは一人で部族を離れた。
部族の英雄でありながら、彼は権力に一切興味がなかったのだ。
彼は、こだまの子として生まれた誇り高き証を求め、
遠い異郷の地を目指して旅立ったが、
その熱き想いは部族に理解されず、彼は逃亡した裏切り者と見なされた…

◆第3巻
冒険の旅に出たことで、賢者としての名声を失ったスンジャタは、
遥か彼方の溶岩の湖へと向かい、灼けつく熱波にその身を晒した。
今となっては溶岩の湖も冷えて固まり、もはや龍や蛇が暴れ回ることもないが、
かの時代、そこは悪龍ルクワタが支配する領地であった。
ルクワタは滅びゆく古龍の一族の数少ない末裔で、
邪悪なる心を持ち、失われた古龍の暴政の復活を企んでいた。
かつて、天地を揺るがすほどの大戦が起こり、その一族は滅ぼされたように見えたが、
ルクワタだけは闇深き岩穴に身を潜め、破滅を逃れていた。

だが、使役する者を失ったルクワタは衰弱していき、
自らが吐く硫黄により両の目を灼かれ、理性は鈍り、狂気に蝕まれていった。
ルクワタは夢の中、天の使者と戦っていた頃の幻想に囚われており、
ナタに人間の時代が訪れていることも知らずにいた。
だからか、名もなき者がルクワタの岩穴へと挑みに来ると、
高貴な古龍は激怒し、咳き込み、嘔吐しながら相手を罵り、
雷鳴のごとき呪詛とともに、口から灼熱の炎と硫黄を吐き出した。
「いずこから現れた、無礼者め!王の眠りを妨げるとは何事だ!」

スンジャタが目にした伝説の悪龍は、すでに老いさらばえ、狂気に陥っていた。
自らを王と名乗るあたり、もはや自身の血統すらも忘れ去っていたのだろう。
それを見たスンジャタは大声で笑い、大きな鉄槌を担いで嘲るように老龍に告げた。
「俺はただの無名な鉱夫だ、無礼者などではないわ。」
「それに、お前さんが君王だと?笑わせるな、ただの愚かな老いぼれトカゲではないか!」
ルクワタはこの言葉を聞くや否や、怒りが喉を突き上げ、再び激しく嘔吐した。
灼熱の溶岩が吐き出され、黒煙が立ち込める。
しかしスンジャタはそれを見ても眉一つ動かさず、重い鉄槌を振り上げ、そのまま老龍へと叩きつけた。

だが、老い衰弱していたルクワタも、怒りに燃えた時の恐ろしさは未だに健在であり、
灼熱の溶岩がスンジャタの髪と眉を焦がした。
そして、龍の唾液に含まれた猛毒が皮膚から臓腑へと染み渡り、耐え難い激痛をもたらす。
また、黄ばんだ牙は腐食を伴う傷を残し、鋭い爪はスンジャタの古傷を引き裂いた。
スンジャタはそれらに耐え、苦痛に身を震わせながらも、止まることなく重い鉄槌を振り下ろし続けた。
そうして遂に、割れるはずのない龍の頭蓋が砕け、立ち込める黒煙が鉄槌によって払われ…
老龍の魂が散った後、溶岩の湖からもその熱が失われていった。
それを見たスンジャタは、満ち足りたようにその場に横たわった。この日を境に、彼は真の英雄として語り継がれることとなった。

ランギヌイの底

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◆第1巻
ランギヌイの底は我が故郷。
私が祖先の故地を思い出すたび、
ランギヌイには朝日が昇る。
流歌の泉ワイアタを見下ろし、
風吹く谷テパハウを見下ろし、
豊穣の地ポヘカを見下ろす。
これらは祖父祖母の故郷であり
みなの故郷、ランギヌイである。

私は先祖の故郷を訪ねる旅に出た。
二十五目の夜、鰻が踊り始める頃
そよ風の平原オハウティから旅立ち、
鮫躍の滝に、浅瀬の堤防を渡り歩き、
輝く深淵ティティゥワに行った後、
朝日に照らされた山を登った。
そして、長きに渡り眠る山と、流泉の主に謁見し、
古代の小人がかつて住んでいた地を探察した。
そして私は下へと降りた。深い深い谷の底へ。
蛍光の魚群が集うタタウタマへ。
小さくて奇妙な植物が群生する地、アカアカへ。
柔らかくも鋭利な暗流が流れる、マィニニへ。
そして、暗闇のウロピと、密林の底へ…

嗚呼、嗚呼!
遥か遠くの地、祖父と祖母の故郷は、
山崩れの如き災害と、野火の如き暴虐によって蹂躙され…
平和に暮らしていた先祖は、飢饉に追われ流浪の身となった。
私は彼らのために声を上げ、彼らの運命に哀歌を捧げる。
泉ですら抑えきれぬ烈火よ、なんたる憤怒、なんたる悲しみ!
永遠に止まぬ嘆きの泉に沿って、私は流浪の旅を続けた——
先祖にカホテアと呼ばれていた、まだらに緑が残る平野へ行き、
そして、古代の龍のように、歌声響く山々へと舞い上がる…
そこにあったのは、かつての天の使者が築いた金石の都。
だが、その地も天より降りし烈火と、上古の君王の怒りにより滅ぼされた。
嗚呼、嗚呼!

それから私は放浪を続け、豊穣の地ポヘカへと向かった。
先祖たちが言うところの、かつてのランギヌイが天と地を分けたという場所へ。
話によると、彼は天と語る賢者であり、大地を護る勇士であったという。
後にその魂は天空へと還り、天こそがランギヌイとなった。
私は豊穣の地を後にし、遥か遠くの海辺へ向かった。
そして、絡み合う蔦に覆われた浅瀬にて、最後の旅を終えた。

私は荒れ果てた足で孤独な火山を登り、
数え切れないほどの温泉を目にした。
今、私は暗流の向こう側へと向かっている。
羽冠を被り、丸木舟に乗った渡し守を探すために。
もし、あの金色に輝く羽冠を見つけることができれば、
私はハイリネイの花園にて、再び同法たちと会えるだろう。
そこは忘れ去られし人の君王が生まれた場所。
同胞と親しき友を呼び集め、共に旅経つとしよう。

首無しのコクイタオ

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◆第1巻
謎煙の主の織人たちは、夜の国を流れるすべての河を知っている。彼らは、物語や詩がミクトランの黒き大河から生まれることを理解している。夜空を舞う猛禽は、「顔面を砕かれし者」の従者。彼女は主の手から月光を凝縮した三重の銀の糸を咥え取り、夜霧を抜けて霊火の地へと飛んでいく。そして、盲目の織人たちにその糸を織り込むよう命じるのだ。こうして織られた色鮮やかなウォーベンは、人々の家や聖堂、戦場に掲げられ、物語や伝説が広がっていく。織り続けられる限り、そのウォーベンはやがて歴史となるのだ。

しかし、すべての部族から追放された流浪の賢者、「海の子」ロパールはこう語った。「私は混沌を受け入れた。だが、混沌は私を受け入れてくれるだろうか?」と。古の物語や謎には、常に危険な秘密が潜んでいる。そこで、夜の主は物語を紡ぐすべての織人の目を奪い、彼らが現実を見ることなく、ただ物語に没頭するようにした。彼らは針のように鋭く冷たい月光を感じることはできても、三つの月の死を見届けることはできなかった。そのため、偉大なる謎と寓話の主の姿は、織られたウォーベンの中でも捉えどころがなく、言葉では決して表現できない、揺らめく煙のように描かれているのだ。

やがて、織人たちが紡ぐ物語は、「顔面を砕かれし者」である夜の主が囁いた言葉となる。その伝説によると、謎煙の主の先祖の中にはコクイタオという名の武士がいた。彼の魂の故郷は凍てつく太陽が浮かぶ、遥か遠い真夜中の地にある。だが、彼は「マカナ」という石棒を携え、死した神々との契約に縛られながら、大地を彷徨い、戦と混沌に満ちた生を送っていた。そしてある嵐の夜、彼は「犬日の神」と言葉なき契約を交わし、その運命を疫病の地より来たるカーメの双子へと委ねたという。

犬日の神はコクイタオに、死を忘れた狂気の者たちに裁きを下し、冷たい煙と夢を星空から再び降らせ、人々に分け与えるよう命じた。そして、コクイタオは「マカナ」を振るい、避けられぬ死をもたらした。行き場を失った魂はミクトランの黒き大河へと還され、やがて夜の主の夢へと沈んでいった。

コクイタオは「マカナ」を固く握りしめ、膝まで浸かるほどの血の海を歩み続けた。そうして幾多の戦いと殺戮の末、彼はついに星空を引き裂く狂想を鎮めた。彼の仲間たちは彼の後に続いていて、その中の一人であるナワルは狡猾で、自在に姿を変えられる力を持っていた。彼は遠い焦土の国の出身で、故郷の炎は今もなお絶えることなく燃え続けている。

コクイタオとその仲間たちによって狂気に囚われた者の最後の一人が処刑されると、血の大河はついに雷雲の上に座する緑玉の衣の主を満足させることができた。彼女は恵みの雨を降らせて大地を潤し、すべての河を浄化した。だが、犬日の神は英雄の魂を返すことを拒んだ。そして、密かに狡猾なカーメの双子に命令し、卑劣なナワルをそそのかして黒曜石の刃でコクイタオの首をはねさせた。

こうして、首を無くしたコクイタオは犬日の神との契約を果たせず、ただ盲目的に悪曜を追い、彷徨うほかなくなった。

◆第2巻

己が選んだ戦士がこれほど悲惨な運命に見舞われたと知った天星の主は、深く悲しむと同時に激しい怒りを露わにし、ツィツィミメを大地に送って首を無くしたコクイタオに復讐の道を示した。この長い暗黒の時代、人々は首のないコクイタオの体が月夜を闊歩し、「マカナ」と呼ばれる石の棍棒を握っているところを目撃している。また、彼が黒い霊豹へと姿を変え、森や草原を静かに駆け抜け、瞑想している祭司たちに悪夢と霊的な啓示をもたらしたとも語られている。

その後、コクイタオがどれほどの長い夜を彷徨い、どれだけ形態を変えたのかは定かではない。彼は血に染まった大地を巡り、かつて天空の主に捧げられた祭壇を渡り歩いた。そしてついに、燃え盛る焦土の国で探していた裏切り者のナワルを見つけた。彼はその時オアシスで休息を取り、毒蛇の血とメシカリの幻覚効果のある液体を啜っていた。

首無しのコクイタオは「マカナ」を振り上げ、一振りで裏切り者の首を吹き飛ばした。その様はまるで、メシカリの偽りの神託が砕け散るかのようだった。コクタイオはその後も幾度となく「マカナ」を振るい、ナワルを燃え盛る故郷へと還した…

復讐を果たしたコクイタオだったが、その魂は大地の生命と一体化していて、もう戻ることはできなくなっていた。首を失ったその身には、ただ冷たく燃え続ける怒りの炎だけが宿っており、それまるで英雄の故郷の夜空に輝く、冷たい太陽のようだった。

それから長い時が流れ、犬日の神も、狡猾な双子も、緑玉の衣の主すらも死に絶えた。しかし、星の光から生まれた魔霊でさえその光が衰えていく中、織人たちはこう語る。コクイタオの怒りはいまだに消えていない、と。首なき彼の影は、今もなお銀色に輝く夜の平原を彷徨い、闇に覆われた深い森の中をひっそりと歩み続けているという。そして、大地が戦乱に包まれた時代、幾人もの英雄が彼の「マカナ」を受け継いだとされ、伝説の大暴君オチカンもそのひとりであった。だが、彼もまた怒りに呑まれ、炎の中で最期を迎えることになる…が、それはまた別の物語だ。

怪盗レッド・ミラーの伝説

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◆ 第1卷
10モラ奇譚ミステリー全集! 怪盗レッド ミラーとサンポ・ミル(季刊特装合本版)

(ナシャタウンで出回っている安物の娯楽小説。一冊わずか10モラで買える。本来は怪盗レッド・ミラーが総督邸から霜月の至宝である「サンポ・ミル」を盗み出す過程が描かれるはずだった。ところが実際は、読者を惹きつけるためなのか、彼を巡って様々な美女たちが火花を散らすシーンで埋め尽くされている。)

……

第四章
鷹よりも危険な美女!「セキレイ」登場! 月明りの中、怪盗レッド・ミラーに近づくその目的とは…!

「まあ、可愛いお嬢さんたちを放って、こんな所まで一人で夜景を楽しみに来るなんて──あなたって本当に冷たい男ねぇ、ダーリン」

その声は璃月の極上の絹のように柔らかで滑らかだが、わずかながらスメールのバラの棘にも似た猛毒が潜んでいる。しかし、レッド・ミラーは振り返らない。あまりにも聞き慣れた声だからだ。

次の瞬間、猫のようにしなやかな身のこなしで、一人の女が彼の傍らに舞い降りた。年の頃は二十代といったところだろうか。淡いバイオレットの長い髪が、わざとらしく露わにしている白い肩と首筋にさらりと流れ落ちる。月光を凝らしたかのような銀色のイブニングドレスが、彼女のしなやかな肢体を際立たせる。だが、何よりも目を奪うのは、小悪魔を思わせる茶色がかった赤の瞳だ。

これが「セキレイ」──あるいは、レッド・ミラーのように、彼女に近づくことを許された数少ない者たちが、時に「A」と呼ぶ女。ナド・クライ随一の盗みの腕を誇り、その悪名において怪盗と肩を並べる、蛇蝎のごとき美女。彼女が欲しいと思った物は、どんなに貴重なお宝でも、必ずその手に落ちる。だが飽きるのも早く、気まぐれに街の貧民にくれてやり、時には海へと投げ捨てる。社交界では数多の男が競って彼女に尽くすが、当の本人は男たちの心を弄ぶばかりで、応えたことは一度もない。

そんな悪女が唯一手に入れられなかったもの──それが、怪盗レッド・ミラーの心だった。だからこそ彼女は、この端正で謎めいた男に執着し、あらゆる手を使って、その心を自分だけのものにしようとしている。

「高級な香水と、安っぽい野心の匂いがするな、セキレイ」

彼女は笑い、怪盗の隣に当然のように腰を下ろす。二人の距離は、触れそうで触れないほど近いものだった。

「どうしたの? 他の男が贈ってくれた香水に嫉妬でもしたのかしら?」絹の手袋に包まれた細い指が、彼の右腕をゆっくりと撫で下ろす。「でも私の鼻に届くのは、過剰な自信の匂い。レッド、あなたの狙いはサンポ・ミル──あまりにも分かりやす過ぎるわ。違うかしら、ダーリン?」

「その通りだ。『霜月の子』から奪われた『サンポ・ミル』、それから他の不義の財も、総督閣下にはまとめて返してもらう」レッド・ミラーがまっすぐ視線を合わせた瞬間、彼女の心臓が一瞬だけ高鳴る。白い頬に朱が差すが、それを隠すように軽薄で挑発的な笑みを浮かべる。「ここは今宵、俺の舞台だ。悪いが、お前には他を当たってもらう」

「それは違うわ」彼女は身を寄せ、唇が触れそうな距離でささやく。「この舞台は十分大きいもの、二人くらい余裕で立てる。でも、スポットライトを浴びるのは一人だけ。サンポ・ミルは私が先にいただくわ、ダーリン…その後は、そうね、あなたが私を楽しませてくれたら、遠くから眺めさせてあげてもいいわ」

キンッ!

言葉が終わるや否や、彼女は稲妻のような速さで細身の短剣を抜いた。しかし、怪盗はとうに慣れきっている。彼女が好むのは、こうした意味のない、危うげで唐突な、必ず彼に防がれる攻撃だ。彼もまた腕を軽く上げ、籠手で刃を弾く。鋼と鋼が一瞬、鋭くぶつかり合った。

「相変わらず好き勝手してくれるな。いずれ痛い目を見るぞ、セキレイ」

「ふふ、好き勝手できるのは美女の特権よ。気に入らないなら、あなたの手でお仕置きでもしてみたら? ダーリン」

月下を渡るそよ風のように、彼女は二歩引き、軽やかな投げキッスを残して塔の下の闇へと消えた。ただ、香水の匂いだけが冷えた夜の空気に漂っていた。

(間の章は破り取られている。おそらく別の用途に使われたのだろう…)

第十七章
総督がサンポ・ミルを盗まれたことに激昂しているその時、突然、スネージナヤから来たという刑事たちが雪崩れ込み、彼を縄で縛り上げた! まさか…!

「ハハッ、総督閣下。どうやら怒りで冷静さを失っているようだ。あの怪盗レッド・ミラーがどんな男か忘れたのか? あの『憎たらしい』泥棒は、もともと変装の達人だ。男女老若、どんなやつだろうと本物そっくりに演じてしまう──そうだろ?」

「お、お前──そんな馬鹿な! もしお前がレオンノフ警部のなりすましだというなら、特務隊がとっくに…」

「レオンノフ警部」と呼ばれた男は高らかに笑い、縛られた総督を嘲笑うかのように、彼の周りを二周、ゆっくりと回る。

「特務隊? それはお前を縛り、宮殿の出入りを封じている連中のことか? あれは俺の部下だ。特務隊のふりをさせたら、お前の部下は疑いもしなかった。知らないのか? スネージナヤの兵士は、上官──たとえそれが『上官になりすました者』でも、その命令には無条件に従うものだ。今ごろ『霜月の子』の秘宝は無事に聖女の手に戻っている。陛下のご意思に背き、霜月の子に宣戦布告をする覚悟でもない限り、お前がサンポ・ミルを取り戻すことは不可能だ」

「貴様…呪われろ、この泥棒め! サンポ・ミルだけならまだしも、なぜ私のコレクションまで根こそぎ奪った!」

「それがどうした? お前が『自分の物』と言うその財産だが──もとはといえば、この地の貧しい人々から奪ったものだろう?」男の態度は終始エレガントなまま、総督の怒声など意にも介していなか った。「俺たちは俺たちのやり方で自由を守る。なぜなら、俺たちのために戦ってくれる者などいないからだ。一般人から略奪する賊も、高みから見下ろす総督も──俺たちにとっては同じだ。まあ、安心してくれ。財宝はお前の代わりに全部、元の持ち主に返してやった」

その時、部屋の反対側で、警部に扮した「セキレイ」が総督には聞こえない声で呟いた。

「まったく、どうしようもない男…何ひとつ自分の物にはしない、なんて言いながら、結局、霜月の一番大事な宝物をこっそり懐にしまってるじゃないの…」

その言葉に「カゲイタチ」は眉をピクリとさせ、思わず部屋の中央で縛られている養父から意識を逸らしてしまう。

「レッドミラーは確かにサンポ・ミルを聖女に渡したはずですわ…まさか、私たちが目を離した隙に、偽物とすり替えた…?」

「ふふ、まだ分からないの? だから若い娘は、この男に騙されるのよ…」彼女はわざとらしくため息をつき、くすりと笑った。「彼が盗んだのは──サンポ・ミルじゃない。霜月の娘の秘められた恋心よ」


◆ 第2巻
恋など信じない令嬢が一目惚れした相手とは?

(ナド・クライで人気の娯楽小説。怪盗レッドミラーと、総督の娘レオニータ・プロホロヴナ・トルベツカヤ嬢が初めて出会った時の恋物語。本作はすべてフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません)

レオニータ・プロホロヴナ・トルベツカヤ嬢こと、ナド・クライ総督の愛娘は、侍女を連れて食堂へ向かっていた。胸の中では焦燥が渦巻いていたが、その足取りはあくまで優雅である。令嬢たる者、振る舞いに乱れがあってはならないからだ。

今朝の新聞を、彼女は誰よりも気にしていた。推測が正しければ、今日は怪盗レッド・ミラーの予告状が掲載される日。なぜそう言えるのか──神出鬼没の渡り鳥の行動パターンを、ほんの少しとはいえ掴みかけているからである。父の部下が怪盗の影も形も捉えられずにいることを思うと、自然と言葉が漏れる。「ふん、必ず捕まえてみせますわ!」

父の新聞を読む時間が、今日に限って妙に長い。レオニータはトーストを呑み込み、さりげなく尋ねた。
「お父さま、何かニュースでも?」
「ふむ…お前が心を煩わせる必要はない」トルベツコイ公は新聞を置き、娘に微笑むと、側の赤髪の従者に命じた。「宝飾師を通せ」

すぐに、宝石箱を抱えた人物が恭しく入ってくる。公はちらりとそちらに目をやり、娘に箱を差し出すよう促した。その瞬間、レオニータの顔に一瞬驚きが走る。「どうだ、私が誕生日を忘れたと思ったか? 三日後の舞踏会、お前はスネージナヤ──いや、テイワット全土で最も輝く娘になる。さあ、それをつけてみてごらん」

令嬢は素直に箱から首飾りを取り出し、首にかけた。父の選ぶ品は間違いない。デザインもカットもフォンテーヌ製、中央の宝石はナタ産の最高級品すら凌ぐ輝きだ。「少し早いが、父として誰よりも先に言わせてもらおう──愛しい娘よ、誕生日おめでとう」そう告げた公は、首飾りを一瞥した後に真顔になった。

「舞踏会では必ずそれを着けるんだ。重要な客人がいらっしゃるから、その方に会ってもらいたい」

その口調から彼女も察しがついた。この誕生日を機に、貴族令嬢としての婚約が待っているのだと。総督家の娘の縁談に本人の意思が介在する余地などない。相手はスネージナヤの有力者の子息と決まっている。だから、レオニータは恋など信じていなかった。信じても、何の意味もないからだ。父が彼女を溺愛する理由は、その聡明さと美貌ゆえ。だがそれ以上に、養女でありながら従順で慎み深く、理想の「娘」の姿を完璧に体現しているからであった。

ただ、それも数多ある理由のうちの一つにすぎない。

「分かりました、お父さま」と彼女は答える。公は満足げに頭を撫でると、父の笑みを消し、恐れられる総督の顔に戻って執務へと向かった。

父の背中を見送った後、レオニータの胸の奥には、小さな穴がぽっかりと開いたような感覚が広がる。だがすぐ息を整え、気持ちを切り替えると、テーブルの朝刊に手を伸ばした──予想通り、一面には黒い羽根を添えた予告状があった。

総督閣下へ
三日後の月なき夜、貴殿の至宝は我が手に渡る。

寛大なるご厚意に感謝を込めて──
レッド・ミラー

====================
「どうですか? 見分けられそうですか?」
フォンテーヌから来た宝飾師は、更衣室から出てきた二人の赤髪の従者を見て目を丸くした。もちろん、総督邸に仕える本物の従者は一人だけだ。
「左…う、待った…右? 違う、ええと…左、いや右だ! うん…右!」
「まさか勘ですか…?」右側の従者が不満げに呟く。
「自信はあるんですか? もし間違えたら、今夜は酷い目に遭いますよ?」と、左側の従者が煽る。
「右だ!」宝飾師はそう言い切るも、額には汗が滲んでいた。
すると右側の従者が「ぷっ」と吹き出し、隣の従者の背中を押して一歩進ませた。「残念、正解はこっち。こいつがお前の想い人だ」
「まったく、本当に分からないなんて!」
「え、いや…右が偽物って言おうとしたんだ!」
「…ふーん」
「ははは、まあまあ。俺たちの目的は『見分けがつかない』ことだろ? 思い人でさえ区別するのが難しいなら、今夜の潜入は楽勝だ」と、従者に扮したレッドミラーが笑ってその場を収めた。
「一人で本当に大丈夫ですか? もし何かあっても、援護できる人が誰もいないのですよ…」と、本物の従者が心配そうに言う。
「これ以上、仲間を失いたくないんだ」レッド・ミラーは笑みを引っ込めた。「それに、一番危険な仕事──総督邸に潜り込むという仕事はもうお前がやってくれた。あとは安心してフォンテーヌへ戻れ。あそこにも、宝盗団の助けを必要としている人たちがいる」
従者と宝飾師は顔を見合わせてから、一斉にレッドミラーに向かって真剣に誓う。「我らはこの世のすべての悲しみを、必ず盗み去ってみせる!」

二人の背を見送ったレッド・ミラーは、夕陽に染まる総督邸へと歩を進めた。トルベツコイ公が宝盗団の弾圧で常に優位に立てるのは、その底知れぬ財力ゆえだ。世界一の怪盗でさえ、そのほとんど無限に等しい財力の前では手をこまねくしかない。財は精鋭を呼び寄せ、最上の武具を揃え、熟練の策士を雇う。そればかりか、法をも黙らせ、あらゆる反抗の芽を黄金の砂に埋めることすらできる。

誰も、その財の限界を知らない。そして何より皮肉なのは──その財がどこから来たのか、本気で問える者が一人もいないことだ。レッド・ミラーはふっと笑う。今や自分は、その答えを知っている──「サンポ・ミル」、持ち主に無尽の富をもたらすという奇物は、総督邸の中にある。その真実に辿り着けたのも、赤髪の従者の調査と宝飾師の鑑識眼、そして間もなく誕生日を迎える令嬢のおかげだ。

====================
レッド・ミラーの予告状を掲載した新聞は瞬く間に完売した。それから数日間、ナド・クライ全土がトルベツコイ公の娘、レオニータの誕生日パーティーへの期待に包まれる──もちろん、その期待の多くはレオニータ本人に向けられたものではなく、やがて訪れる「怪盗と総督の直接対決」に対してであった。

こうして、総督邸はやむを得ず厳戒態勢を敷き、来賓ひとりひとりの素性を何度も洗うことになった。なにせあの怪盗は、変装の名人なのだ。スネージナヤから招かれた高貴な客人の中には、前日から宮殿内の客間に滞在する者も多い。レオニータは、来客の名前と爵位が並んだ長いリストに目を通す──男爵、伯爵家の嫡子、宮廷の新星、女皇陛下に重用される家系…彼女の首にかけられたネックレスが、なぜか急に鎖のように重く感じられた。

休憩を挟もうと、彼女は庭へ出ることにした。

「お母さん、あの人が総督のお嬢様なの?」
「そうよ」
「でも…どうして人間なの? だって、総督閣下は人間じゃないよね?」
「彼女は総督の養女なの」
「ヘンなの。偉いトルベツコイ公が、どうして人間を養女にしたの…?」

見知らぬ淑女が、少し離れた廊下で子供とひそひそ話をしている。レオニータがこちらを見つめているのに気づき、子供を連れて去っていった。

本当にそうだ。偉いトルベツコイ公が、どうして人間を養女にしたんだろう?
「本当にそうだ! 偉いトルベツコイ公が、どうして人間を養女にしたんだろう?」

自分の心の中を、そのままなぞったかのような声が聞こえた。レオニータは思わず辺りを見回す。しかし、庭には彼女しかいない。今のは幻聴だろうか? 小さく息を吐き、総督邸の奥にある密室へと向かう。また治療の時間だ…それは毎回、彼女の体力を容赦なく奪い去る。でも幼い頃から、決して弱音を吐かなかった──父を辱めることだけは、絶対にあってはならないから。

なぜか、レオニータの心の中に先ほどの声が蘇った。

それは不思議なほどに温かい声だった。冬の焚き火のように鮮烈で、白雪を溶かすぬくもりを持っていた。

====================
夜が更け、舞踏会の招待客が次々と到着した。レオニータの胸も、高鳴りを抑えきれずにいる──ひっきりなしにダンスの誘いに来る人たちの名を、一人として覚えられそうにない。

「10、9、8…」──0時が近づくにつれ、周囲の視線が彼女に集まっていく。先ほどから父の隣に立つ「宮廷の新星」とやらが、まるで彼女の首飾りを射抜くように見つめているのが分かる。「6、5、4…」レオニータは自分でも何を待ち望んでいるかが分からなかった──誕生日? それとも別の何か?

「…3、2──」

その瞬間、会場にいる人々の輪郭が、銀白の泡に包まれたかのように霞み始める。それは徐々に濃くなっていった。レオニータの身体からも時折、こうした白い輝きが溢れ出る。父はそれを一種の病気であり、継続的な治療をしなければ治らない、人間ゆえの欠陥だと言っていた。

「…1!」首にかけていた宝石が、カランと音を立てて床に落ちた。

一瞬にして世界は銀白に染まり、雪深い夜のような静寂に包まれた。心臓は光に呼応するように脈打ち、見えない糸にそっと引き寄せられる。逃げるべきだと頭では分かっているのに、足は優しく押さえ込まれたかのように動かない。これは何? 魔法? 運命? それとも、これまで信じたことのない、ひとたび踏み込めば燃え上がる、あの感情? 時が止まったかのようになり、周理*の人々がすべて掻き消える。温かな赤色が彼女へとまっすぐ駆けてきた。

「お嬢様、ここは危険です! 総督閣下のご命令を受けて馳せ参じました、私についてきてください!」
「お父さまがそんな命令を…? いいえ、違いますわ。貴方は…レッド・ミラー!」
「緊急事態です。総督閣下からのご命令で──」
「高名な大泥棒と聞いておりましたけれど、いざ目にしてみれば、ただの厚かましい大嘘つきのようですわね!」
「…なるほど、これは賢いお嬢様だ」
「ふん、お父さまはハエー匹通さない警備体制を敷いていますわ。どう足掻いても逃げられませんわよ」
「その警備の本丸は、密室にあるサンポ・ミルだろう?」
「……!」
「予告状にも書いたはずだ──今夜、貴殿の『至宝』は我が手に渡る。サンポ・ミルは確かに素晴らしいが、『至宝』には遠く及ばない」
「それって、つまり…わ、私を盗むつもり?」
「そうさ。賢くて、愛らしいお嬢様」
「ふん、私はプロホル・トルベツコイ公の娘。貴方はお父さまの最大の敵と言っても過言ではありません。そんな敵にそう易々とさらわれるつもりなんてありませんわ!」
「お前は本当に彼の娘か? 高貴なる公が、なぜ人間を養女にする…?」
「……」

銀白の力、治療、サンポ・ミル、公の尽きぬ財力、そして「養女」。瞬時に、すべてが一本の線で結ばれた。そうか、自分こそが父の財力の源。「治療」と称された儀式は、サンポ・ミルに無数の宝石を複製させるためのもの。いや、本当は最初から気づいていた。ただ、ずっとその事実から目を背けていただけで…

「おっと、あやうく忘れるところだった。ギリギリのタイミングでダイヤに仕込んだ細工を起動したからな──まあ、間に合ったから良しとしよう」赤髪の従者という変装を解き、本来の姿を現したレッド・ミラーが、彼女の耳元でささやく。
「ハッピーバースデイ!」

その後の顛末は、誰もが知っている。レッド・ミラーは総督邸の秘宝を根こそぎ奪い去り、レオニータは彼の顔を見た瞬間、一目で恋に落ちた。そして、貴族としての誇りをすべて捨て、彼と共に放浪の旅に出た。レッドミラーの伝説など後世の作り話に過ぎないと言う者もいるが、それは恋を知らぬ者が「恋など存在しない」と言うのと同じこと。ただ、自分がその瞬間を経験したことがないだけなのだ。


◆ 第3巻
ジーマについて、私たちはほとんど何も知らない。彼はスネージナヤという、飽くことを知らぬ雪に一年中覆われる国の出身だ。その名は、いかなる航海日誌にも、英雄譚にも記されていない。ただ一片の雪のように、ひとつの伝説の表面に舞い落ちると、すぐに溶け、跡すらも残さなかったのである。

彼の故郷は、スネージナヤ・グラードの南東、雪山の影にひっそり佇む小さな町であった。町人は氷の採取を生業とし、雪山の伝承や物語は、氷層の奥に封じられた古代の空気のように、風雪の夜ごとに吐き出される。そこには道に迷った旅人の靴を盗むという、狡猾な霜精の話や、「スネグーラチカ」と呼ばれる蒼白で憂いを帯びた精霊の話があった。スネグーラチカの中には、人間の愛を求め、氷の風の中を彷徨う者がいるという。だが、その愛が裏切られると、恋人の体温をすべて奪い、霜に覆われた、生き写しの彫像に変えてしまうそうだ。ジーマの仲間の一人もまた、スネグーラチカに恋をして山で凍死した。発見されたとき、彼の顔には陶酔にも似た微笑みが残っていた。ジーマはその笑みを見て、「なんてつまらない死に方だ」と思った。彼の胸を満たしていたのは、冒険への渇望だった。誰も経験したことのない、自分だけの運命を欲していたのである。彼は単調な繰り返しを嫌った──奇怪な死に方も、それが繰り返されてきたものであれば忌避した。こうして彼は永遠の白を離れ、南へ──青い海に抱かれた群島へと向かった。そこで耳にしたのが、伝説の怪盗の物語だった。

その頃すでに、レッド・ミラーの名はナド・クライに轟いていた。彼はかつて総督に捕らえられ、スネージナヤ・グラードで公開絞首刑に処されるはずだった。だが、人々がその揺れる死体と共に物語の終わりを確信したその時、総督邸の宝物庫は空となり、壁には黄金の粉で書かれた嘲笑の一文だけが残されていた。誰ひとり、彼がいかにして死の縄を逃れたのかを知らない。この奇跡の復活は、酒場で永遠に語り継がれる逸話となり、港の若者たちの憧れとなった。そして怪盗が再び本業へと舞い戻り、三本のマストを持つ帆船を買い、港で富と刺激を求める船員を募ったとき──ジーマは迷わず手を挙げた。

しかし、船上の日々は伝説のようにはいかなかった。レッド・ミラーは「富める者から奪い、貧しき者に与える」と謳われながらも、その行動は香辛料を扱う商人のように慎重だった。彼の海図には暗礁や海流のほか、「海獣の目撃が伝わる海域」や「海蛇が出没すると言われる霧の海」が赤インクで囲まれており、彼はそれらを避けるために日数を費やして遠回りした。日々の暮らしは、甲板磨き、帆の修繕、壊血病で腫れた歯茎の痛みに耐えることで埋め尽くされた。ジーマは、故郷で感じたものと変わらぬ退屈を覚えた。夜、漆黒の海に向かってこう祈った──真の嵐を、あるいは伝説の海獣を、この目で見たいと。英雄譚のように、怪盗が槍で海獣の眼を貫く姿を、自らの魂を震わせる光景を、彼は見たかったのだ。

その祈りは、望まぬ歪んだ形で叶えられた。船が凪いだ蒼の海域に差しかかったとき、どこからともなく歌声が響いた。それは人の声ではなかった。旋律を持たず、それでいて酔った水夫の魂を直に掴み取る響きだった。風を失った帆は垂れ下がり、船はたちまち動きを止める。やがて、すぐ近くの海面に蒼白で美しい女性の顔が浮かび、「ここを通るなら供物を差し出せ。さもなくば船ごと海底へ沈める」と彼らに告げた。

しかし、レッド・ミラーはその要求を拒んだ。乗員全員に蜜蝋で耳を塞がせ、歌の魅了を防ごうとする。だが、効き目はなかった。伝説の前では俗世の理屈など無力であり、致死の歌に囚われた水夫たちは恐慌に陥った。彼らは総督邸から奪ったモラの箱を次々と海へ放り投げ、「これで通してくれ」と言わんばかりに金色の円盤を紺色の海の底へと沈めていく。だがセイレーンは、人間の富の象徴など意にも介さない。彼女の飢えた視線は、水夫たち一人ひとりに注がれていた。

かつて絞首刑の縄から逃げおおせた怪盗も、そのときばかりは屈せざるを得なかった。レッド・ミラーの刃が、冷たくジーマを指す。しかし、ジーマは抗わなかった。これこそが、故郷を離れ、求め続けてきた彼にとっての「唯一無二」の瞬間だったからだ。冷たい海水が頭を覆う刹那、彼の脳裏に氷像となった友の顔が浮かぶ。スネグーラチカの接吻で凍りつき、陶酔の笑みを見せたまま息絶えたその姿が。彼は「繰り返し」を忌避し、生涯をかけて既知の結末から逃れようとした。だが最期の瞬間、すべての逃避行は、鏡の向こう側に映る同じ結末へと繋がるのだと知る。その冒険は、新たな物語を生むことなく、古い物語の誰も気に留めぬ脚注となって終わった。

北の果て、祈りの歌

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◆第1卷

『序詩』
唇よ歌を紡ぎて詩を織りなせ、北の戒めを綴りて伝承を語れ。
我すでに遠く故郷を離れ、我すでに遠く生まれし里を残した。
人知らぬ国土を漂泊し、痩せたる異境の辺土を流離う。
凍原の荒涼を抱くは深き水だけ、千の湖のほとりに舞うは雪の浪だけ。
されど幸ありて、月光は未だ我が身を照らし、風は未だ我が頬を撫でる。
我は詠わん、月下の塵世の始源を。我は誦せん、邪祟を祓う詩篇を。
我は歌わん、奔流してやまぬ大河を。我は唱えん、連なり絶えぬ山々を。
我は讃えん、セウテルヴォイネンの銅の船を。我は称えん、イアニクイネンの黄金の矢を。
我は呪わん、パッカイスッコの奸計を。我は叱咤せん、ポホヨラの災厄を。
我が祈りの歌、それすなわち高天の聖言なり。先の神使い、これを我が祖に唱へ伝えたり。
されど運命は一瞬の夢の如く、死影は清水の如く、双眸を覆う。
空なる月が高天に囚われし限り、我は愛しき故郷へ還ることあたわず。
黄金の柔光は松の梢を照らし、蒼銀の暁星は枝の間に瞬く。
ヒュペルボレイアの若き裔よ、我が祈りの歌を心の奥に刻みおけ。
狡き狐の狭き小径を求めるなかれ、驕れる大熊の威権を慕うなかれ。
ただ祈の歌とルノが響くかぎり、北の果ての国は永遠に受け継がれん。


『祈祷歌 其の一 :七重の災厄の主・パイカモンネン』
(夏至の日。初穂の麦を刈り取り、炎にくべ、牝鶏一羽と牡牛一頭、麦と同じ重さの蛇胆を供え、純銀の器に満たした七杯の■■■■の■■の血を捧ぐ。大司祭はルノを七度唱え、臓卜を行い、神の怒りを鎮める)

高天を支配する御方よ。無慈悲にして征し得ぬ、万物の父にして神々の母よ。
我らはここに供物を捧げる。その不興を和らげ、烈しき怒りを大地に下さぬように願う。
喜怒うつろいやすき翼の持ち主よ。地上の国々を滅ぼす凶王よ。石より堅き心を持つ神よ。
その性別すらも判じがたき神よ。願わくは、人の地を離れ、北の果ての子らから遠ざかり給え。
御身は古き律の秩序を打ち砕き、人に庇護を与えつつも■■し、
永遠なる者の古き棲処を揺るがし、その翼を■■せ、そして■■を奪い給う。
御身は報復の神、御身は怨念の神、月下において御身の御心に背くことあたわず。
御身の刃は天にも地にも■■を振るい、悪しき者であれ清らかなる者であれ、その■■を飲み尽くす。
■■にして■■なる王よ、御前においては、神ですら凡人と変わらず、人はもはや蟻のごとし。
誰ひとり、御名を軽率に呼ぶことはせぬ。知る者すべてを御身は■■する故なり。
されど、清くも烈しき神よ、願わくは、我らの捧ぐる祭祀を善心もって受け入れ給え。
霜月の光が、御身の降す災厄を阻み、我らを永劫の苦痛の終極から守らんことを。

(司祭アンローズによる備考──詠月使アイラの命令により、この祭礼は五百年前に廃止されたという。注目すべきは、この祈祷歌の判読できない部分に意図的な抹消の跡はなく、記録が事実ならば、もともとの儀式において、大司祭がこれらの言葉をあえて曖昧に唱えるよう定められていたということだ。これも、七重の災厄の神を怒らせないためだと言われている。)


『祈祷歌 其の二:命を授ける母・マードテラーカ』
(赤子の産声あがる時。聖き石にひとつまみの海塩を捧げ、助祭以上の祭司はルノを四度唱え、ヴィンテル草を浸した温水にて、新たに生まれし命を清める)

尊きマードテラーカよ、神と人すべての母よ、聞き届け給え。
ヒュペルボレイアからシャール・フィンドニールまで、その慈愛は深く敬われ、あまねく大地に讃えられてきた。
御身は若き母らを守り、その苦痛を拭い去り、安らかに子を抱かせ給う。
御身は命の連なりを喜び、月下の世界に生命を授け、大自然を抱き育む。
大いなる水の母よ、原初の荒ぶる海に心臓を与えし神よ。
月の下を舞う鳥も、駆ける獣も、泳ぐ魚も、すべては御身の子なり。
御身は聖き御心に従い、陶工が泥を練りあげるように、血と肉のかたちを刻み出す。
故に我は祈る。この新しき命に、健やかさと、勇気と、知恵を授け給え。

(司祭アンローズによる備考──詠月使アイラの命令により、この祭礼は五百年前に廃止されたという。今は助祭以上の祭司が、新生児に「新月が前途を照らさんことを」と告げるだけの形に改められた。この祝福は、月下の世界の穢れが、その魂を汚さぬようにと祈るものである。)


『祈祷歌 其の三:冥府の母・トゥオネタル』
(秋の収穫の日。その年に亡くなった者の位に相応しい贄の動物を選び、彫り上げた木の船、あるいは銅の船に載せ、火にくべる。贄はあらかじめ処し、助祭以上の祭司がその双眸を抜き取り、冥府の女主へと捧げる。大司祭は深い色の織物でその両目を覆い、ルノを四度唱え、臓卜をし、神を喜ばせる。)

万の死者を抱く女主よ、無心にして表情なき神よ。
その影を潜め冥府を司る、厳粛にして寡言、畏るべきトゥオネタルよ。
御身の傲慢なる生者への憎みは深く、誰ひとり、御身の手より逃れ得ぬ。
御身はその足で、茅葺屋根の粗末な家を、黄金の玉座すらも踏む。
御身はすべてを目にし、すべてを耳にし、すべてを裁く。ゆえに人は御身を畏れる。
御身はすべてを許し、すべてを抱き、すべてを受け容れる。ゆえに人は御身を敬う。
あらゆる命の終わりを裁くは、御身をおいてほかになし。いかに哀願を重ねようとも、その心が揺らぐことはない。
されど、高貴にして厳粛なる神よ。我らは存じている、その慈悲と恵みの天性を。
御身が我らの祖先のさらに祖に与え給うたのは、終わりなき苦痛ではなく、解き放たれる安らぎであったと。
月下の生者すべての運命を見通す死の主よ、どうか我らの供物を受け取り給え。
北の果ての子らは黄金の血脈とともに、すでに御身の懐へと還った。
その魂を漆黒の冥河の彼方へ導き、夢なき夢に永遠の眠りを与え給え。

(司祭アンローズによる備考──詠月使アイラの命令により、この祭礼は五百年前に廃止されたという。身分や地位に関係なく、霜月の信者がこの世を去る時は、助祭以上の祭司が「新月が安寧の彼岸へと導かんことを」と唱え、素朴な葬式を執り行うべきである。)


『祈祷歌 其の四:時の母・ライメレア』
(冬至。その年に記されたすべての大事を織物に写し取り、これを焚いて、その灰を清らな水を湛えた銀の杯に納める。祭祀を司る大司祭は、ルノを四度読み、風立つ刻を待って、祝福を受けたその水を「蒼林の穂」に注ぎ、かの神を悦ばせる。)

永遠にして清浄なる時の母よ。未だ生まれず、また去りしことなき主よ。
御身は万物を創り、滅ぼし、記し、また忘却へと還す。
己を生みし刻にして、己を生み出したる神よ。至高にして母たる御方よ。
御身は流れの中にあって唯一動かず、神々の庭にあって唯一、外より来たる者。
願わくは、幽閉されし四つの月を守り給え。願わくは、幽閉されし四つの月を守り給え。
神々の庭にあって唯一、外より来たる者よ。不動の中にあって唯一流るる者よ。
至高にして母なる者よ。己を生み出したる刻にして、己を生みし神よ。
御身は万物を忘却へと還し、記し、滅ぼし、また創り給う。
未だ去らず、また生まれず、永遠にして清浄なる時の母よ。

(司祭アンローズによる備考──この祈りの詩は、その意味すべてが不明であり、記された儀式の内容は、歴史的事実に反している。「蒼林の穂」は五百年前、月の少女の誕生とともに芽吹いた聖なる樹であり、それ以前の儀式に、その名が現れるはずがない。また、現存するいかなる文献にも、この儀式を裏付ける記述はない。書き写す途中で生じた誤りであると考えられる。しかし、元の記録を尊重し、ここに記された文面は修正せず、そのまま残すこととする。)


『祈祷歌 其の五』
(欠落)


◆第2巻

『祈祷歌 其の六:始源の鍛冶神タコヤ・イアニクイネン』
大地の骨と三つの月を鍛えし主にして、そびえ立つ始源の父よ。
御身は怒り、均衡を失した王座を正さんとし、麗しき美女すら屈服させんとす。
第一の日、御身は月光に煌めく黄金の弓を鍛え、仇敵を射抜かんと構えた。
されど狩りの途中、弓は盗賊の手に奪われ、遂には仇敵の物となる。
第二の日、御身は月光に煌めく車を鍛え、己が居所を護らんとした。
されど狩りの途中、車は盗賊の手に奪われ、遂には仇敵の物となる。
第三の日、御身は月光に煌めく織機を鍛え、星々の乙女を娶らんとした。
されど粗忽から、霧濃き泥沼に沈み、光満つる鍛炉の火は遂に絶える。
語るべくも語りえぬ大王よ。血を嗜み、殺戮を悦ぶ鍛冶神よ。
罪なき者の非業の死と戦乱に耽溺する、不幸と凶悪の支配者よ。
恐ろしくも強き永生の工匠よ。二つの天性を統べる主よ。
御身は諸神のごとく健やかにして、剛毅で、勇ましく、星々すら御身を恋い慕う。
滅ぼされざる君主よ。願わくは、大地の骨を震わす激しき怒りを鎮め給え。
願わくは、我が心を蝕む痛苦を和らげ、漆黒の災いを終わらせ給え。

(司祭アンローズによる備考──この祈祷歌は自然災害を鎮めるために使われた古いものである。記載によれば、最後の四句が変更されており、自然災害を呼び寄せるものも存在しているとのこと。しかし、月の少女が生まれるよりも以前に、変更後の版は失われていた。理由は不明である。最初の詠月使アイラがこれを大幅に修正、簡略化したものが現在使われている。唱える時は、以下の文言に準ずること──

純白の霜月よ。北の果ての子の名において願う。この大地を揺るがす激しき怒りを鎮め給え。
願わくは、御身の温かな光明で、万人の胸に巣くう痛苦を和らげ、かの漆黒の災いをも終わらせ給え)

……


『祈祷歌 其の十一:暁の星の女神と北の果ての聖徒・コイタルとセウテルヴォイネン』
我は呼びかけん。セウテルヴォイネンの妻、至高のコイタルよ。創造神の最初にして、最も美しき娘よ。
寛大なる少女よ、燦然たる暁の星よ。北の果ての子らは、弦の音で御身の偉業を永遠に讃えん。
霜降らす夜の寒風も、我らの胸に燃ゆる銀の焔を消すことは叶わず。陰悪なる夜も、我らの心を穢すことは叶わず。
いつの日か、我らは故郷へと帰る。草で荒れた墓地を越え、黄金の町へと再び戻る。
我は呼びかけん、至福のコイタルよ。願わくは、かつて諸国を打ち破りし時のように、我らの戦いを守り導き給え。
願わくは、大地を震わせ、町を揺るがせ、北の果ての仇敵を霜月の下に滴る露のごとく、跡形もなく消し去り給え。

(司祭アンローズによる備考──この祈祷歌は古いものである。最初の詠月使アイラがこれを大幅に修正、簡略化したものが現在使われている。唱える時は、以下の文言に準ずること──

雪の如く冷たい風も、我らの胸に燃ゆる銀の焔を消すことは叶わず。陰悪なる夜も、我らの心を穢すことは叶わず。
純白なる霜月よ。願わくは、北の果ての子らを守り給え。寒夜と漆黒の災厄を、露のごとく儚く散らし給え。)

……


『祈祷歌 其の十六:冬の客人・サレライネン』
嗚呼! 霜と冬日の伴侶よ、御身の受けし死の痛みを、我が身に移し給うな。
快活にして善き心を抱く美男子よ、高貴なる家に生まれ、優しくも強き息子よ。
御身は星の間を駆ける駿馬に跨り、ヒーシの荒れ島と、陰り霧立ち込めるポホヨラを越え行く。
御身はパッカイスッコの娘に求婚せんとし、至上の美を持つ乙女の館へと向かう。
我らが祖先に仕えし者、老齢のパッカイスッコは答えけり。
ポホヨラの門を開くことができれば、その若き花嫁を娶らせよう。
快活にして善き心を抱く美男子よ、御身はその邪悪なる奸計を知りながら、なおも旅立った。
さもなくば、老齢のパッカイスッコは、容易く欺かれる己が娘を代わり罰したであろう。
されど、七重の災厄の主は、陰り霧立ち込めるポホヨラにて、御身を七つに切り裂いた。
パッカイスッコの娘、若く清らかなる乙女が嫁ぐことはその後なかった。
我は呼ばん、口にすることもかなわぬ御身の名を。世の苦痛と不幸を癒す、迷える英雄よ。
願わくは、その慈しみをもって寒夜の狂風を鎮め、この凍土にうずくまる雛鳥をも温め給え。

(司祭アンローズによる備考──これは傷や病を癒すための古い祈祷歌である。最初の詠月使アイラがこれを大幅に修正、簡略化したものが現在使われている。唱える時は、以下の文言に準ずること──

迷いし子よ。北の果ての末裔の名において、光明の恩寵を祈り願う。
願わくは、霜月の慈しみ、その恵みをもって、寒夜の荒ぶる烈風を鎮め、凍土にうずくまる雛鳥をやわらかに包み温め給え。)


◆第3巻

『祈祷歌 其の二十一:霜月の女神・フーレクータル』
フーレクータルよ、聖き薄明かりの母よ。高天よりその眼差しを投げかけ、我が祈りを聴き給え。
その静かなる涙をもって寒夜を裂き、永く消えざる銀の燭を燃え立たせ、北の果ての民に道を示す光明を授け給え。
フーレクータルよ、銀の梭を軽やかに揚ぐる母よ。その柔き紗を天穹に満たし織りなして、我が祈りを聴き給え。
迷いし魂にして、汝が紡ぎし銀の糸に沿い、幽世の穢れを避けしめ、寒夜にあっても道を失わぬよう導き給え。
フーレクータルよ。御身が我らをどこへ導こうとも、我らは必ずその御心に従わん。
たとえ、死の影をもたらす寒夜が我らの瞳を覆おうとも、我らは偽りの光に恥辱の歌を捧ぐことを望まぬ。

(司祭アンローズによる備考──この祈祷歌は、改変がなされていない古いものである。初期からこの短さだったのは、我らの祖先を庇護する主神の行いが、過度に語られてはならないためである。また、それぞれの月の起源、過去、そして未来を詩にして伝えることが、許されざることだからである。最初の詠月使アイラがこれを修正、簡略化したものが現在使われている。唱えるときは、以下の文言に準ずること──

純白なる霜月よ。我、北の果ての末裔の名において願い奉る。願わくは、天蓋より降り来るその眼差しを我らに授け給え。
その静かなる涙が寒夜を裂いて流れ、見棄てられ、忘れられし我らに、進むべき道を示す光明を授け給え。)


『祈祷歌 其の二十二:月の少女・クータル』
澄みわたる新月よ。我、霜月の神使いの名において、御身の恩寵と慈しみを請い願う。
願わくは、我らが罪を洗い清め、楽園を仰ぐ縁なき者たちのため、幾千の苦痛と幾千の涙を拭い去り給え。

ホラガイの残響

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◆ 第1卷
「その手にあるホラガイをくれ。そうすれば、これ以上お前を困らせはしない」
焚き火のそばに現れたのは、端正な顔立ちの少年と、その取り巻きたちだった。彼は手の中の刃を弄びながらそう告げる。
人影の絶えた追放の地──少年少女たちが小声で「果ての地」と呼び合うこの場所で、彼らが夜を迎えるのはこれで三十回目だった。
木を伐り、草を刈り、果実を割り、そして邪魔者を排するために使われた刃は、もはや最初の鋭さを失っている。かつて彼らを力で支配しようとした大人たちは、その剣を鞘から抜く間もなく息絶えた。
今では、その鞘がどこへ投げ捨てられたのかさえ、知る者はいない。
「本当に、このホラガイが欲しい?」
ホラガイを胸に抱くのは、彼らの中でいちばん背の低い少年、皆が「チビ」と呼ぶ子供だった。
「ああ、そうだ」
「どうして?」
「そんなの聞くまでもないだろう?」と美しい少年は笑みを浮かべ、続けた。「これは『俺たち』が決めた掟じゃないか、チビ。そのホラガイを手にした者が、みんなに命令する権利を持つんだ」

そう、これは自分たちを奴隷のように扱う大人たちに抗うために、焚き火の前で交わされた子供たちの秘密の約束。
この荒れ果てた悲しみに満ちた土地で、追放者という身分を捨て去り生き延びるために。
子供たちは決めたのだ、仲間の中から一人を選ぶことを。自分たちと同じ子供でありながら、苦境を打ち破る力を持つ者を。力を恐れず、彼らの味方であり、知恵に富む者を。そして、ホラガイを手に入れ、みんなのリーダーに成り得る者を。
そのホラガイは、昼間の浜辺での労働の合間、大人たちの目を盗んで取ったもの。それはつまり、大人たちにも隙があるということ。
まるで「両親といえど全知全能ではない」と、子供がある日ふと気づくその瞬間のように。多くの子供にとってそれは幻滅の始まりかもしれないが、この地の少年少女にとっては、むしろ何よりの朗報だった。
しかし…
思い描いていた秩序は訪れなかった。むしろ、子供たちの中に残る「獣」としての残酷さが、抑えつける者のいない中でいっそう膨れ上がっていった。暴力ですべてを覆せるのなら、その力を持つ者が、すべてを奪わないはずがないのだ。
ホラガイも…そして約束によってホラガイが象徴したすべてのものが、強奪の対象となる。

「キミは、このホラガイにふさわしいの?」
「俺は一番の働き者で、一番成果を上げた。しかもこの剣は今、俺の手にある」
「それで、キミは僕たちの主人になるんだね?」
「もちろんそうさ。俺がお前たちの主人に一番ふさわしい」
「昔の大人たちみたいに?」
「別に…それの何が悪い?」
「そう…」チビはつぶやきながら、焚き火の炎を背にして立ち上がった。逆光で誰もチビの表情をよく見ることはできなかったが──
美しい少年はなぜか、相手が笑っているような錯覚を覚えた。胸の奥に、妙な不安が広がる…この夜までは、何もかもがこの手にある剣のように、確実に自分の掌に収まっていると思っていたのに。
チビはホラガイを彼に差し出し、みんなに背を向けて密林の奥へと去っていった。
その夜を境に、ホラガイを持っていた少年の姿は忽然と消えた。それから彼を見た者は、誰一人としていなかった。


◆ 第2巻
「君は、こうなることを最初から分かっていたんだね」
眼鏡をかけた少女が、その小柄な少年を見つけ出して連れ戻す。それを見た子供たちが、心配した面持ちで道を開けた。
その先には、端正な顔立ちの少年が重い荷を積み重ねて作った椅子に、力なく腰かけていた。青みを帯びた肌がその整った容貌をより引き立てている。唇は深い紫に染まっており、揺らめく炎の光は風に翻る妖しいヴェールのように彼を包んでいた。
外傷は見当たらない。にもかかわらず、その両手は垂れ下がっている。もう長いことそのままなのだろう。まるで石膏像のように硬直していた。
かつて彼が誇りとしていた剣が、そのそばに落ちている。
誰ひとりとして、それを拾おうとはしない。
「こうなることは分かっていたけど、こんなにも早いとは思わなかったよ」
小柄な少年は、その剣を拾い上げた。まだ硬さを保っているが、刃こぼれや歪みが幾つもあり、輝きを失っている。
少年は、この力をどう手入れすべきかを知らない。それでも、この力こそが彼の唯一の拠り所だった。だからこそ、剣が手入れを必要としていることを、他人に知られるのを恐れた。
やがて彼は猜疑心に囚われ、眠りは短く浅くなり、怒りやすくなった。大人たちが弱みを見せて倒れていったことを知っていたからこそ、自分も同じ過ちを繰り返すことを恐れたのだ。だが、その恐れがかえって自らを破滅の道へと導いてしまった。
多くの物語で必要とされるのは、結局ただ一つの我慢強さだった。

「いつから、この結末を予想していたの?」
「彼が僕にホラガイをくれと言ってきたときからかな」
「ホラガイを?」
「ホラガイなんて、僕たちが浜辺で拾ったただの玩具なのに。彼はどっちかを手放すべきだったよ。ホラガイか、それともこの刃こぼれした剣か。どっちも捨てずに両手が塞がってしまえば、剣を振るう動きも鈍くなっちゃうのに」

そのとき、一人の女の子がホラガイを大事に両手で持ち、みんなの間から前へ出て、男の子に差し出した。
ホラガイを持つ手には、縄で縛られてついた赤い痕が刻まれていた。
「君ならどうする?」と、メガネをかけた少女が彼に問う。
少年はそれを受け取り、まるで絵本の物語をなぞらうように吹き鳴らそうとした。だが加工もされていないそのホラガイから漏れたのは、くぐもった間の抜けた音だけだった。
そして、それに耳を当てる。ホラガイの奥からは波の音が聞こえた。
「僕たちはここに僕たちの町を作る。子供たちだけの楽園をね。このホラガイは、もう誰か一人のものではない。みんなが順番に掲げ、言いたいことを言い、望むことを口にできるようにしよう」
「でも、いつかは私たちも歳を取って、なりたくもない大人になっちゃうよ」
「それでも大丈夫。『明日』は必ずやってくるし、新しい子供もまた必ず生まれてくる。もし彼らが『僕たち』という大人を気に入らなければ、そのときは彼らがこの世界を壊せばいい」
見た目は平凡な少年。背は低く、小柄で、そして聡明な少年。
彼は、刃こぼれした剣を海へ投げ捨てた。
そして、ホラガイを子供たちの真ん中へと置くのであった。